今もしも本が好きという人と話す機会があって誰々の作品がどーこうだとか言われると疲れるかも知れない。そこそこ同じような本を読んできた人とだったらあーアレはどうでしたとかこうでしたとか少しは話せるのかもしれないけれど、そこそこ読んできたはずなのにもかかわらずあまり残っていない。
むしろ自分にとって本は駆け抜けていってしまうものなのかもしれない。芥川賞は廃れた、もう価値もない、むしろこの賞はなくなったほうが良いのかもしれないがこの賞をずっと保った上で芥川のような天才が出てくるのを待つのが良いかもしれないという考えをwebで見かけてしまった。死ねばいいと思う。それは作品に憧れたりその背景にある文学界の発展を望む何かとか有るのかもしれないけれど作家にとってはそれほど重要な事だとは思えないし、文学界の発展なんて結果論の塊だと思うし、今あるテキストが良いか悪いかはそれは人の好みで、好きなテキストならそれでいいじゃないかと思ってしまう。マジである。
今話してみたり聞いてみたいのはどんな本のどんなテキスト感が良かっただとか、自分はこういうテキストが好きなんだけどあの本は全く予想外でよかったとか、その人自身のフィルターだけを通した後の何かであって、変な常識とか、見えを気取るものとか、その人が他人のフィルターを何重にも通した上で言っている意見とかでは全く無い。それが書評というものなんだと思う。他人の考えを通した上での意見なんて薄っぺらいし感性ボロボロになるんじゃないのそれと思ってしまう。酒は美味しいけど合う料理は人によって違うと思うのだ。
山田詠美が直木賞の選考で「悪文も徹底すればいつしか詩を孕み、機智の稔りをもたらし、そして揺ぎない個性と化す」と井上ひさしから言われたというのを今日知った。悪文かぁ。良い響きすぎる。こんな風に自分が聞きたかった言葉がふっと流れてくるインターネットに依存しているのかもしれない。

最近コレはいい本だなーと思ったのはハイキュー。