週末ぼーっと考え事をしていてふと「自分を愛せない人は他人も愛せないのかもしれない」という言葉が浮かんだ。誰かの有名な言葉の気もする。自分の愛し方をわからない人間が他人の愛し方を分かることは難しいという仮説。自分の愛し方は自分が一番わかるはずであり、それを基に人は人を愛する表現をするというのは当然のことのように思える。だからこそ自分なりの愛し方が通じなかったり、予期せず人を傷つけてしまったりすることがあるのかもしれない。

自分を愛せずに自分に怒りを向けてばかりいると、いつしか人に怒りを向けることが愛情表現になってしまうのかもしれない。そう考えると自分を愛せない人は人を「愛せない」のではなくて「愛し方がおかしくなってしまう」と言ったほうが適切なのだろうと思う。

数年前、友人を捨てた。捨ててしまった。
とある揉め事の相談に乗っていたとき、うまくいかなくなった彼は自ら命を絶とうとした。結果揉め事は表面上丸く収まったのだけれど、自分はここが彼を支えられる自分の限界だなと思った。申し訳ないがもう無理だということを彼に伝え二度と会うことをやめた。周りからは許してやれと言われた。ひどい奴だと言われたりもした。しかしただ怒りに任せた理由ではない。許さなかったわけではない。こちらの心が壊されるのはどうしても避けなければならないと思っただけだった。思えば自分は血縁関係にある人間でさえも拒絶したことがある人間だ。しかし家族より友人を捨てたことのほうが自分にとっては後悔ではない懺悔が残った。

自分は聖人でもなんでもないし、心には許容出来る限界がある。それを超えるものをいつも受け止めていたら壊れてしまう。なるべくならば助けになりたいと思うけれど1つのことだけを考えて生きているわけではない。だから時にも依るけれど限界を超えるあと1ピースになりうることは避けざるを得ない。世の中にはどうしても合わない人がいるし、自分も誰かにとってそうなってしまっているに違いない。そこは真摯に受け止めて諦めていきたいと思っている。
人間の心はそれほど厚くなくて、自らにだけ向けたつもりの刃は時に外に飛び出してしまって周りを傷つけてしまうものなのかもしれない。

拒絶されてしまう人の救われる方法は何なのだろうか。変われないと苦しんでいるのに変われというのは酷ではないか。人は人を見限るまでの間は意外と善意を与えてくれるものだと思う。小さな善意を受けて、また拒絶されて。そういうのを繰り返していくうちに尖った刃が少しずつ丸くなっていくということもあるのかもしれない。受け止めてくれる人がいるならば、その人はきっと傷付きながら立ってくれている。少しでも刃を削りその人の痛みを軽くしたいと願うことも救われる方法なのかもしれない。

自分の刃はどれくらい丸くなっているのだろうか。
なんだか人生が川の流れのように思えてくる。