最後の煙草 ― ジャングルノート4話

この記事の所要時間: 4 48
第三章:タバコを吸うワニ
 
 私は人生の師と言うものに出会ったことが無かった。出会っていたならば借金で首が回らなくなり、命を賭けてまでジャングルクルーズに参加するなどという馬鹿げたことも無かったことだろう。しかし皮肉なことに私は人生の師と呼べるものにジャングルで出会うことになる。それは人間ですら無かったのだけれど。
 
 ジャングルに入って一ヶ月程がたった。時を知るために持っているものは時計と手帳のカレンダーだけ。すると今日が本当に今日なのかどうかなんてわからなくなる。祖国に帰ったとき、時は再び正確に動き始めてくれるのだろうか。隊の奴らも少し打ち解けてきたのか段々と本性を表し始めた。我儘、傲慢、怠惰、狡猾。所々に自分と同じ匂いを感じることが出来る。私は相変わらず二人の隊員を死に追いやった者を探していたが手がかりなど有る筈も無く、誰もが怪しげに見えるだけだった。既にそれは憎しみというより只の執着だったのかもしれない。それこそが私の生きることへの希望だった。ジャングルはそれ程酷かったのだ。私達はアマゾン川の支流の一つに沿って更に奥地へと向かっており、底なし沼のようになっているぬかるみを避けながら随分の距離を歩いていたように思う。
 
 その光景はまるで自分が不思議の国のアリスに落っこちてしまったかのように突然現れた。
 川辺の淀みに流れ着いた一本の丸太の上。葉巻をもくもくと吹かすクロコダイルがそこにいた。ご丁寧にシルクハットまで被っている。私達は熱病にでも冒されていたのかもしれない。しかし全員が同じ光景に息を呑んでいたし、あながち夢でもないはずだ。黒豹との出会いがあったにしてもやはり信じられない光景だった。
 
「やぁやぁこんにちは。こんな所までようこそ」
彼は目でも悪いのだろうか。片眼鏡を掛けたそれは黒豹の時と同じように流暢なフランス語で私たちに語りかけてきた。
「今、私は会話というものにとても飢えているのだよ。不躾だが一度にいかせてもらおう」そう言うと今度は頭の中に直接ワニの声が聞こえてくる。頭の中を直接触られているようなグニャグニャとした声だった。
 

「仲間を見てごらん。お前が求めていた答えはそこにある筈だ。ただし焦ってはいけないよ。殺すのだけが答えではないのだ」

 私は戸惑い、ワニの言葉を必死に否定しようとしたが周りの隊員達が次々と先に声を上げ始めたのでなんとかとどまることができた。どうやらワニはそれぞれの隊員達に対して別のことを話しかけているようなのだ。私は喉に力を入れて声を上げるのを堪え、沈黙を守ることにした。
 
「よろしい。君は少しは頭が働くようだ」ワニは言った。
「私との会話に集中しているふりをしてよく周りを見てごらん」
 隊員たちの中には、笑いだすもの、泣き出すもの、耳を塞ぎだすもの、もう帰りたいと声に出すものも居る。
 
「仕方がなかったのだ、本当に仕方がなかったのだ」
 声のする方向に目をやると隊長の横で副隊長が必死の形相でワニに弁解をしている。
 私は直ぐに悟り、ワニから顔をそらさぬようにして隊長の顔を伺った。彼は憮然とした態度で副隊長とワニのやり取りを見守っているようだ。目には複雑な色を湛えているようにも見えた。
 
「まぁやめとけ」ワニは私の目を自身に戻させるとこう続けた。
「復讐などと言うものは陳腐なものだ。それによって得をすることなど何一つとして無い。自己の肯定にばかり固執することほど無駄なものは無いのだ。何故ならばそれが自分にとっての最大の幸福とはなりえないからだ。ーーわかるかね」
 

 私が求めていた言葉には足りなかったが、それは当に真理だった。思えばジャングルに入るずっと前から自分を肯定するために、俺は一体どれだけの徒労をしてきたというのだろう。隊員達の肉塊を見たあの日からずっとデリンジャーを犯人の口に突っ込みたいと思ってきた。怯える目と懺悔の言葉を吐かせたかった。それが陳腐な自分の正義を肯定するたった一つの方法だと信じた。だがその先には何もない。引き金を引くのか、引かずに報復を受けるのか、どのみちその二通りしか答えはないのだ。

それにしても何だかあっけない顛末だった。犯人としては当たり前すぎる人選であったし、命を賭けるには物足らないとしか思えない。体は無力な喪失感で包まれていた。

 
「時にーー」
 頭のなかに少し温かみのある声が響く。
 
「正しい答えはすぐ側にあるにも関わらず見えない時がある。愚かさは時に自己を肯定するものだったり、真に見えるものだけを追い求めようとする。ところが真などというものはその時点で判断される一つの形でしか無い。様々な答えは常に別のベクトルにあるために、時が経つことによって真だったものが嘘になってしまうことも多いのだ」
 
 私は神々しくさえ思えてきたその生き物に、それではどうすればよいのか、自分には抗えない本能としか思えないと尋ねてみた。
 
「その本能に従いつつ、流されないようにすればよい。此の流木のように澱に留まることもあるだろう、流れる途中で降りて岸に向かうのも良い。全てに可能性の路があることを否定せずに受け入れるのだ。他人の声というのもそのうちの一つだ」
 
 その声を最後にワニの声は聞こえなくなった。彼のシルクハットも、片眼鏡も、葉巻の煙さえも消えていた。他の隊員たちはまだ、何があったのか受け容れられず混乱しているようだ。私は周りも憚らず、大事に残していたタバコをゆっくりと取り出すと火を着けた。目線の先には何の変哲もない野生のワニがいる。
 
 最後の煙草を吸うことが今の私にできる彼への最大限の敬意だった。
 
スポンサーリンク
レクタングル(大)
スポンサーリンク
レクタングル(大)