フェラーリ99’

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「実は私達付き合ってるのよ」
 他に誰も客が居ないスナックでママからそんな話を打ち明けられた。年は確か40歳のあたりで18歳の娘さんがいる、ちょっと小綺麗な神社に祀られてそうなキツネ顔をした美人だった。
 最近よく手伝いと称してカウンターの中にいる橋さんは確か大手鉄鋼会社の課長だったはずだ。家庭内別居中の奥さんとは冷えきっており、娘さんの話をするときだけは少しだけ饒舌になるような人だった。
「そうなんだ。おめでとう」
そのとき二十三才だったはずの俺はママにどう映っていたのだろうか。まるで知り合いのお姉さんが結婚してしまったみたいな落ち込んだ気持ちでカウンターに飾られたF1の模型に目を移した。
「皆には内緒ね」
 お祝いの言葉さえろくに言えてないのに今日は良いからとご馳走になった後、まだ夕日に明るい家路を自分の未熟さ加減に頭を垂れながら歩いた。
 内緒の筈の話は知らないうちにあっという間に常連客の間に広まっていたけれど、それでもごく一部の客を除いて通うのをやめることはなかった。今ならなんとなく判る、皆きっと他に行けるところなどなかったのだ。あそこはなにかしら心に弱みをもった人たちの吹きだまりだった。思えば橋さんがママの家に転がりこんだあの頃が一番店が活気づいていた時かもしれない。
 ーーそれから半年くらいたった頃。突然、橋さんが消えた。
 会社にもママにも、仕送り中の別れた家族にさえも何も言わず本当にふっと消えてしまった。ママは暫くの間、毎日泣き腫らした顔でカウンターに待ち続けていた。常連は何事もなかったかのように足繁く店に通った。ママはさんざん手を尽くしたようだったけれど橋さんが店に戻ることは結局なかった。
 ある日、自分しかいない開店したばかりの店のなかで「あの人も仕方がなかったのよ」と思い出したようにママが呟くのを聞いた。何が仕方がなかったのだろうか。本当にどうにもならなかったのだろうか。いや俺には解からないけれど仕方ないって言葉はきっとそういう言葉なんだろう。
「そうだね」と言いながらやり場のない気持ちを動かすと赤いF1の模型が目に入ってきた。
 カウンターの中に橋さんは居ない。けれど今のこの気持ちはあの日のものに良く似ているなと思った。付き合っていることを告白された日の帰り道の夕焼けの気持ちだった。
「あの人、優しいけれど弱かったから」
 その日のビールはなんだか少しだけ苦かった。
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