死の鱗粉 ― ジャングルノート5話

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四章:蝶の墓場
 
 ワニと出会ってからの私は祖国に帰ってからのことを考えるようになっていた。ここに来る前の私は雇われで会計事務所に勤め、ある程度の給料を貰っていたのだ。普通に生活する分には困ることなど無かった筈だ。あのバーの裏に隠された二階の一室で夜な夜なポーカーなどに現を抜かすことさえ無かったならば。
 
 私はギャンブルの中毒性を味わい尽くしていた。財布が空になった帰り路のあの虚無感と絶望。そこにすら陶酔を覚えた。数少ない勝利の美酒は粘度を持って絡みつき、勝利の記憶はいつまでも残るように私の脳を侵食していった。あと何回勝てば全ての負けを取り返せるのか、などという無駄な計算も放棄させた。借金の重みだけが現実を見ようとしない私の首をゆっくりと、それでいて確実に絞め続けていったのだ。本当にそんな感じだった。そして雁字搦めになった私は遂に仕事まで失う羽目になる。
 
 ジャングルの旅には良い時と悪い時があった。命の危険がない時は良い時、死ぬかもしれない時が悪い時。其れは本当にシンプルで私はいつしかこの旅を自分の人生に重ねるようになっていた。
 あれからの私達は更に二人の仲間を失っていた。前日まで元気だったはずの彼らは原因不明の高熱によって呆気なく旅立っていった。昆虫学者は蚊の所為だと主張したが蚊に刺されていない者など此処にはそもそもいなかったし、自分の死がそんなに近くにあるなんてことをどうやれば信じられるというのだろう。二人は単に運が悪かったのだ。自分は大丈夫だ。正気を保つためにはそう信じるしか無かった。
 
 その日、私達が辿り着いたそこも安全な場所の筈だった。湿地帯を抜け、剥き出しになった土の上に色鮮やかな葉を持つ木々が数十本群生している。
「蝶の…墓場だ」
 昆虫学者は呻くように声をあげた。ジャングルに入る直前に村で聞いた嘘のような話は、こんな奥地に実在していた。鮮やかな葉に見えたものは密集した蝶達の羽だったのだ。何億もの蝶が蠢き、樹木の様相を作り出している。私は鱗粉を吸い込まぬよう顔にタオルを巻きつけた。
 
 自然は時に信じられない程に残酷だ。私達はこの数ヶ月で充分それを学んでいた。だから少し感覚が麻痺していたのかもしれない。こんなにも多くの蝶が生きていけるほどの花が何処にあるのだろうか。ジャングルはそんな疑問に対する答えを私達の頭が思いつくのを待たずに見せつけてきた。花の蜜ではなく蝶を吸う蝶。よく見ると木の幹に見えていたものは化石化した蝶の死骸だった。密集する蝶は弱肉強食の世界そのままだったのだ。
 
 昆虫学者は更なる調査のため、風下にある一本のそれを選ぶと慎重に火を点けた。羽を燃やしながら命尽きるまで空に舞おうとするもの、そのままま最期迄木にしがみつき絶命していくもの。其れはまさに命を燃やす儚い何かだった。他の木の蝶達は微動だにしない。彼等は火の粉すらかかるはずが無いと信じているのだろうか。其れは自分の死の可能性を考えることを拒否する今の私達の姿のようにも見えた。
 
 全ての葉を失った蝶の枯木からはまるで本当の木のような枝が現れた。空に向かって伸びる死骸の枝は不気味を飛び越してただの不思議な何かだ。私達は完全に火が消えるまでいつ迄もそれを見上げ、昆虫学者が幹の一部を小瓶に入れるのを待ってそこを後にした。
 
 其の夜、私を含めた数人は高熱を出した。おそらく鱗粉を吸い過ぎたのだろう。あんなに美しかったあの場所はちっとも安全な場所では無かったのだ。しかし高熱に冒されている間も私はこの熱で自分が死ぬなどとは不思議と思わなかった。
 
 熱にうなされる私の脳裏には火に包まれてなお命の限り飛ぼうとする蝶の姿がいつまでもいつまでも焼き付いていた。
 
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