マルセイユ ― ジャングルノート8話

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六章:迷い込むライオン

 外の歓声をよそに、私は笑いながら涙を流していた。何のための涙なのかは解らない。祖国へ早く帰れる喜びなど無かった。全てはまやかしだということは判っている。早く帰れると言われたところで祖国へすぐにつく訳ではない。生きて辿り着ける保証もない。たとえ帰れたとしてもそこで何をして生きていくというのか。そもそも私は一体ここで何をしていたのだろう。このジャングルの旅は私に一体何を与えてくれたというのだろうか。答えはまだ見つかってない。私は諦めることにすら疲れてしまっていた。結局のところどうにもならないことをそれなりにやり過ごしているだけなのだ。
 そんな思いを巡らせる私のテントにガサゴソとする物音があった。とっさに涙を拭い、未知の来訪者を待つ。果たして入ってきたのは一頭の雄ライオンだった。

 私は息を呑んだ。何故こんな所にライオンが居る。此処はジャングルのど真ん中なのだ。一体どこから迷い込んで来たというのか。ライオンは見るからに弱り痩せこけていた。其れでもゆうに私の二倍程もあるそれが直ぐ目前に居る。こいつはこれから私を喰らおうというのか。私はライオンの目から目を逸らさぬようにゆっくりとベッドの下のバッグへと手を伸ばした。小さなデリンジャー。私はそれを脇腹に構えると彼に話しかけた。

「フェアに行こう」
 私は殺されるかもしれない、しかしこいつも死ぬかもしれない。ライオンはグルグルと喉を鳴らしながらじっとこちらを見ている。黒豹やクロコダイルのように流暢なフランス語を話せやしないのだろうか。汗がじっとりと背中に吹き出し、すぐに冷たくなってシャツを張り付かせる。そんな私を気にすることなくライオンはテントの入口に寝そべりだしてしまった。これで私はここから駆け出して逃げることが出来なくなってしまった。

 ほら見ろ、頭の中で嘲笑が聞こえる。つかの間の喜びなどいつも簡単に覆されてしまう。その度に慄き、運命を呪い、立ち向かい、乗り越えては必要以上に安堵する。俺はそんな単純な生きものなのだ。もううんざりだ。こいつに殺される運命ならば其れでもいい。
 一向にテントを出て行く気配のないライオンを見ながら私は本気でそう思い始めていた。デリンジャーをベッド脇の簡易椅子の上に置く。勝手にしろ。そうだ、チョコレートがあったはずだ。乱暴にリュックの外ポケットからチョコレートを取り出すと半分に割ってライオンの方に放り投げた。自分でも其れを食べてみせる。ライオンは疑い深くチョコレートを舐めるとゆっくりと口に入れて咀嚼した。こいつはジャングルで初めてチョコレートを食べたライオンになるのかもしれない。そんなくだらない事を考えてニヤつきながらもまだ死への恐怖はしっかりと残っている。時折見える牙の隙間からくぐもった咀嚼音が出る度に背中に凍りつくような痺れが走るのを私は食い止めることが出来なかった。私に出来る事などもう何も無い。ただこのライオンが出ていくのを待つか、襲ってきたらせいぜいの抵抗をするだけだ。

「もう何をしたらいいのか自分でも判らないのだ」自然と口から言葉が出ていた。
「私は人生を踏み外してしまった。迷い路に入り込んでしまった。私にもまだ何処かに違う生き方が有るのかもしれないと思った。けれどこんな辺境の地に来てさえも私は私でしかない。結局何も変えることなんてできやしなかったのだ。一体お前はどこから来た。サバンナがこの近くにあるのか。それとも何処か住みやすい場所を探していたのか」

 ライオンは少し悲しげな顔をしているように見えた。そうだ、この顔には見覚えがある気がする。
「ジャン、お前はジャンなのか」
 ふと頭に浮かんで口に出してみた問いかけにもそいつはやはり無言だった。彼はスクっと立ち上がると、くるりと後ろを向いてテントから出て行こうとする。それはあまりにもあっけなかった。私はまた生き延びてしまうのだろうか。外のテントからはまだ笑い声が聞こえて来る。突然身体がガクガクと震え始めた。我慢していた恐怖が後から押し寄せてきていた。震えを抑えろ。私が今するべきことは震えることなんかじゃない。

 アロン ゼン-ファン ドゥ ラ パトゥリー ウ! ル・ジュール ドゥ グロワール エ タ-リヴェ!ーー祖国の子どもたちよ!栄光の日はきたれり!

 私は震える声を怒鳴り声に変えて歌い始めた。一瞬の静寂の後、外からは仲間たちの歓声が上がった。テントの外から次々と歌声が増していく。ライオンよ。私も生きる。お前も生きろ。そうだ、私は自分は運良く死を免れているだけなのではないかと薄々気が付いていた。ただそれを確信する事ができないでいたのだ。しかし確信した。私は何者かによって生かされている。生きている理由など其れで充分ではないか。私はここに来て初めて自分が間違いなく生きて帰れるだろうと思った。祖国へ帰ることが現実に起こると信じられた途端、それは紛れもない喜びへと変わっていった。そうだ私は守られている。その確信は歌えば歌う程大きくなっていき、強く私を鼓舞していく。震える声はもうない。先程までとは違う涙が頬をつたう。私は更に声を絞り出していた。

 プウープ、ヴーブ ブリーズ ブォス-フェ! イ-ヴォス アウズィーン パトゥリ!
ーー民衆は縛られた鎖を引きちぎる。お前はお前の国を持っている!

 あのライオンがジャンである筈など無いだろう。けれど私はあのライオンが何処か安住の地にたどり着くことをだけを願い声を上げる。誰にも気づかれずここを逃げろ。

 暗いジャングルの空に祖国の歌が溶け込んでいく。

<目次>

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