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Ginzasur.com

活動報告

ラファエル田中

この記事の所要時間: 4 1

「じゃあ名前はなんて呼べばいいかな」
「田中です」
「田中?ラファエルじゃないの?」
「役名はそれです」
「じゃぁ、田中さん。他の人は?」
「ちょっとみんな色々あって。清水さんはお子さんが熱出しちゃって今日は代役で鈴木さんが来ます」
「清水さん?」
「あ、エレーナです。ヒロイン役の。清水さんシングルマザーで大変なんですよ」
「・・・えぇっと。代役は・・・鈴木さんだっけ、鈴木さんは?」
「彼女は遅刻常習者なんで、あっ、でも30分以内には来ます」
「30分?本当に来るの?俺あんまり時間ないんだけど。困るなー。でも後一人いるはずだよね。凄腕の剣士役の人」
「はい。30分以上遅れると罰金なんで皆さん来ますよ。剣士。あぁ加藤さんですね。加藤さんは台本だとシーン2まで出番ないんでそれまでには来るかと」
「あーそっか。じゃそれまではいける感じ?なんとかなりそう?」
「そうですね、なるべく台本の進行は崩さない感じでなんとか」
「そっか、わかった。で衣装はどうしようか?流石にそのアディダスのTシャツはないよね」
「はい。鎧は2パターン。つや消し黒の鎧と普通のシルバー。剣は片手剣と両手剣があります」
「じゃ両手剣でいってみよっか。カッコいいし。主人公っぽい。鎧は普通のでいいや」
「あ、えーっと・・・。僕、両手剣の演技苦手なんですよ。あれ重くて。片手剣じゃダメっすか?」
「えー、マジかよ・・。うーん。じゃいいよ片手剣で。最初はどんな感じ?」
「最初は仲間の紹介やら強さをアピールしながら回想でストーリーを繋いでいく感じですね。それで最後の敵の部分だけは最初にガンガン仲間がやられていきます。そこから主人公である田中とボスの戦闘シーン。もちろん最初はボッコボコにやられるんですが、何故か一人ずつ倒れていた仲間が立ち上がり、最後に皆で倒してハッピーエンドです」
「そこは田中とボスじゃなくてラファエルとボスって言おうよ。って言うかそもそもダメじゃん。だって仲間居ないよね、今。」
「そうなんですよねー。取り敢えず軽い敵を倒して加藤さんの出番まで引きます。導入部分も買い物シーン長めにして尺稼ぎしますから」
「まじか。そのぉ、、取り敢えず一人で倒す軽い敵ってどんなの?ゴブリンとかそういう奴?」
「スライムです。ゴブリンは・・・ちょっと強いんで。いつも倒せるかギリギリで。あと・・・昨日・・・寝違えちゃって・・・」
「え、、本当に?田中さん主人公だよね?おかしくない?本気?」
「はい。頑張ります」
「不安だわー。本当頑張ってよ。でもまぁ今日は初日だし。田中さんは今日が演技初めてじゃないよね。わかった。とにかく見せてよ」
「はい。わかりました」
「じゃどうすればいい?」
「はい。まずはそこのそれつけてください。第一章、シーン1の街のイメージで始めます。あとは僕の動きを追いかけてもらえばなんとか」
「うん。わかった」

本の上にホログラムで浮かび上がる田中ラファエルを見下ろしながら、脇に置いてあったVRヘッドセットをつける。暫くすると頭の中の30センチメートル前、現実と非現実の間に、中世を模した街が現れた。

−−最新型のVR書籍

見出しの次のページにあった主要人物紹介は三人。そのうち二人がまだ来ていない。

 

「じゃぁ、始めますんで」
VRに内蔵されたヘッドフォンから街の雑踏と軽やかなBGMが聞こえて来る。目の前にはちゃんと冒険用装備をまとった田中・ラファエルが居た。道具屋で足りない装備を揃えるようだ。

おい、田中・・・。
なんで道具屋にチョコレートがあるんだ。おい、、、キットカット買おうとするなよ。
どうして買い物かごにイオンって書いてあるんだよ。スポンサー、もしかしてスポンサーなのか田中・・・。
頼む、頼むから買い物かごを姉御持ちしないでくれ。
そこに一列に並ぶのか。道具屋なのにラインが引いてあるのか。
おい、田中、なんでその時代にレジスターが有るんだよ。
しかもSuika対応かよ!!!
ポイントカードってなんだよ!
今日はイチのつく日かよ!!!
あぁ、もうダメだ。何やってんだよ・・・。
一番大切な薬草を忘れちゃ駄目じゃんよぉぉぉ。
 
カメラワークが得意気に切り替わる。
鎧の隙間から見覚えのあるTシャツの裾がはみ出ていた。

田中、、、田中、、田中ァぁぁぁ。
お前本当にスライム倒せんのかよぉぉぉ。

バイト前にちょこっと試そうと思った自分が悪いのかもしれない。しかしそんなことを反省する以前に何か根本的に間違っている気がする。

本のタイトルは『皮肉な冒険3D』

正直この先不安しか無い。

ミノタケ

この記事の所要時間: 4 32

 文具店の中は消しゴムの微かな香りと現像液を拭きとった後のような匂いが混ざっていて、ここがただの本屋ではないことを主張していた。なんで俺はここに居るんだっけ?確か失恋したか何かでとても疲れていて、トボトボ歩いていただけなのにいつの間にやらこの店に吸い込まれてしまったのだ。秋。

 店主は俺を見るとスックと立ち上がり、眼鏡奥のキツネ目から俺を品定めしているようだった。
「折角寄っていらしたのですから、どうぞこちらをご覧ください」
 そう言ってキツネ目がショーケースから取り出したのは沢山のペンだった。瑠璃色の天鵞絨に化粧されたトレイの上に綺麗に並べられている。俺はこいつはきっと気が狂れているに違いないのだと得心する。俺にこんな高そうなペンなど買えるものか。
 黒と赤がマーブルに塗り上げられているものやら、純白の中に乳白色のオーロラ模様が埋め込まれた宝石のようなペン。とにかく全てが高そうだ。
 対して俺はといえばリアリティ・バイツの三人がプリントされた寄れ寄れのTシャツに尻ポケの上の毛皮のパッチが気に入っている裾の切れたジーンズ、鼻緒はもう色褪せた下駄といういでたち。
 そもそも字だってとても下手くそなのだ。高いペンを持つには値しないことなど十分心得ている。段々と怒りがこみ上げてきてキツネ目を睨んだ。俺をからかっているのか。

「そうですねぇ。お客様にはこちらなどお薦めかと。シンニのペンでございます。こちらを使っていただきますといつもと違う文章が書けるのです。どうぞお試し下さい」そう言ってキツネ目は黒と赤のマーブル模様のやつを俺に渡してきた。

『確かに良いペンかもしれませんが僕にはこんな立派なペンはとても似合うとは思えないですがね』とは言えなかった。
 取り敢えず字の汚さだけでも見せて諦めさせようと試し書きをしてみる。

“ファァァァァック!!俺はお前のような人を見下す野郎は本当に大嫌いだ。胃の中にある全ての胆汁をここにブチまけたいほど反吐が出る。俺は今このペン先を貴様の手の甲に突き立てたい衝動を猛烈に耐えているのだ。
わかるかこのクソ野郎が!”

 ペンは勝手に動き出して思っても見なかったような酷いセリフを紙の上に書き出していた。
「そのようにそのペンは怒りの感情を書かせてくれるのです。他には〜」何事もなかったようにキツネ目はペンを渡してくる。興味が出て来た自分は促されるままに書いてはみるのだけれど、次々と渡されるどのペンも普段では浮かばないようなセリフばかりをどんどん勝手に書きだしていくのだった。

「どれになさいますか?」
何本も試し書きをさせられた後、店主は買うのが当たり前のような前提で尋ねてきた。よくわからないがこの大量にあるペンは自分の中の特定の欲望を忠実に書き出せる力を持っているらしい。
「一本どれでも千円になります。但しお買い求めになれるのは一本だけです」Leeのポケットをまさぐるとクシャッとした紙幣の感触があった。こんなペンが千円で買えるというのか。とても良い買い物な気がする。然しこんな物を買って一体どうするというのだ。自分がさんざん裏切ったせいで遂に逃げて行った女への恨み言でも書けば良いのか。それとも有り余る性欲でも書き散らかしていつかの自身への機智として蓄えておけというのか。其れは其れで楽しいかもしれない。悩む。

 答えを出すためにどれほど時間が経ったのだろう。なんだか頭がボーっとしてウヮンウヮンと耳鳴りがしていた。喉が渇いて歯が尖っているような気もする。結局一本の筆記具を買って店を出ると季節は冬になっていた。まったく意味がわからない。とても寒い。冷たい下駄をカランコロンといわせながら急いで家まで帰った。

——–

 あれは何ですかと俺は尋ねた。キツネ目の眼鏡の向こう側に銀色の何かが見えたからだ。
「あちらでしょうか?あちらはただの鉛筆です。あれも千円になります」
 あれは何が出来るのかと更に尋ねてみる。
「取り敢えず何か書けます。貴方が思っていることを」

 そうか。普通の鉛筆か。
「あれを下さい。銀色の鉛筆を」
 ブゥゥゥーン!グゥアゥッ!バッキーーーーーン!
 グレッチでフルスイングされたような音と衝撃がコメカミにやってきた。耳はキーンと高音を奏で、鈍痛ではなく鋭痛が耳がまだ付いていることさえ疑わせた。俺は横っ飛びに吹っ飛んでいた。グレーになった世界にキツネ目の男の声が続く。

 オレヲ誰ダトオモッテヤガル。
 折角お前に本当の欲望を吐き出サセテやろうとしたのに。。
 ペンが何本あったかを数えなかったのか、勘の悪いやつめ。
 お前を地獄の猛火で焼いてやりたくてたまらない。
 忌々しい偽善者ぶりニ反吐が出る。
 お前だって結局血の流れている人間なのだ。
 欲望まみれの低俗な己を判っているだろう。
 俺はお前だったんだよ。折角のチャンスを不意にしやがって。
 頭痛は俺からのプレゼントだ。
 そのままいつまでも楽しむといい。

——–

 早速買ってきた鉛筆で試し書きをしている。あの後に文具屋で起こったのはこんな感じだった。最後の衝撃はまだ残っており、記憶はドンドン無くなっていくような気がしている。

 世の中、金と銀の斧を差し出されたら、間違っても鉄の斧は選ばないのが良いのかもしれない。少なくとも殴られずには済む。

狐祭り

この記事の所要時間: 1 34

 夏祭りの社。

 橙色の提灯の明かりがボンヤリと屋台道を照らしている。ふと見ると狐の面がこっちを見ていた。少し神経質そうな後ろ姿をした男が立ち止まる素振りもなく歩いている。そんな男の後ろをちょっと離れて付いて行く南天柄の白い浴衣の女。狐の面は女の後ろ手にひょいと乗ってこちらを見ている。

 突然女は男の浴衣の袖を引っ張り足を止めさせた。大正眼鏡を掛けたとても気難しそうな男の横顔が見える。どうやら女は林檎飴をねだりたいらしい。渋々という言葉はこんな時のためにあるように男は懐から財布を取り出して林檎飴を買った。

 女は無邪気に林檎飴を受け取るとペロリとそれを舐める。白い浴衣に南天の赤、赤い林檎飴は屋台の明かりで光っている。狐面の赤い隈取が更に鮮やかさを増した気がした。

 男が何やら店番と話している間に女にこちらの視線を気付かれてしまった。びっくりするほど白い綺麗な顔の上で赤い口紅がニッコリと笑う。なんだろうこの違和感は。目を逸らせたいとは思っているくせに逸らすことが出来ない。

 男は話が済んだらしくまた歩き出した。女は林檎飴を持った手でひらひらとこちらに手を振るとぴょんぴょんと跳ねるように男の後をついて行ってしまう。なにかに化かされたように取り残された自分にふうっと意識が戻ってきた。
 夏祭りに浮かぶ白い浴衣。南天、口紅、林檎飴。まだ目は女の後ろ姿を追っている。赤と白のなんだかクラクラする意識の中で一つのことだけがはっきりと浮かんだ。

 ーーあの男は喰われるのだ。
 その言葉の恐ろしさに「ヒェッ」と声が出そうになるのを堪えると遠くを行く狐の面がニコリと笑ったような気がした。

 祭りは盛り上がりを増していく。大きくなるお囃子の音がたった今起きた目の前の不可思議を空の遠くへと掻き消そうとしているようだった。

仏僧物語

この記事の所要時間: 5 41

 男が座っている。
 齢は三十そこそこだろうか。まげの剃る部分、月代には生えかけの毛が目立ち無精髭も甚だしいため浪人風情に違いない。男は町の外れの道端の日陰で片膝を立て、じっと物思いに耽っていた

「誰かとまぐわいてぇ、つまりセクロスしてぇ」
 しかし住むところさえも無い男に残ったものは体のみ。残されたわずかばかりの金ではもう最期の食事を満足な物にすることさえままならなかった

「俺はこのまま死んでいくのか。もはや女とまぐわうことすら許されないのか。手元にもしも最後の三萬円、いや一〇匁でもあれば街で女を探して最後の一興をもって死ぬこともできるのに」
 だが男はそんな金など持っていない。

「しかし腹を切る気にすらなれん。というか腹が減った」
 突然湧き上がる生への欲求は男を地面に縛り付けていた無意味な妄想や怒りや諦めから解き放った。

「なにか食わねば。生き延びてぇ」
 男は少し朦朧とした頭で生き延びるための算段を始めた。無一文でも始められる商売を探そう。そうだジョブチェンジしよう。
 真っ先に思ったのは追い剝ぎだった。追い剝ぎだったら直ぐにでもできる。だが待てよ、そんなことをしたら即刻人相書きが回るに違いない。そして打ち首獄門の刑。マゲも切られた無残な姿で首だけ晒されるなんて恥だ、末代までの恥だ。ってそう言えば俺が末代になるのだったっけ、キングオブ末代、未来に子孫繁栄の予定なし。いや例え子や家族がいようともやっぱり打ち首は嫌だった。どーせ首なんてスッパリ綺麗に切れるはずない。迎える最期は地獄の苦しみに違いないのだ。
 男はそういえば自分は歌がうまかったと思い出した。よし、ここはいっちょ琵琶でも掻き鳴らしニューミュージックでもやってみようか。そしたら女にもモテるかも知れぬしヒモなんていう素敵な響きの職業にランクアップできるかもしれない。それこそ一石二鳥ではないか。しかし無理だった。そもそも琵琶を買う金なんて持っていなかったのである。

「坊さんになろう」
 至極普通の思考回路に戻って男は考えた。人に施しを受けるにしたって坊主の方が乞食よりよほどマシだろう。最悪どこかの寺で小坊主として一から始めればなんとか生き延びることもできるかもしれない。

 善は急げと持っていた刀で髪を切る。もはや武士の誇りなんて何処にも無かった。だってこのままだったらどのみち死んでしまうのだもの。脂ぎった髪を切り落とし、今度は脇差しで頭髪を剃ろうとするのだがなかなか上手くいかない。脇差しは人を切った後のようにすぐに油をまとってしまう。思えば風呂屋にもずっとご無沙汰だった。刀身に纏わり付く短い毛髪。そんなもので剃ろうとするものだからすぐに頭皮を切ってしまう。

「ダメだどうしよう。超痛いしドクドクする。刀って危ないね」
 そんな当たり前のことに今更気づいてしまい、男は髪を剃ることを諦めて近くの寺を探すことにした。

ーー

「住職はおらんか」
 声を上げると一人の弱々しい感じの小坊主が出てきた。男は住職に会いたい旨を伝えるが、住職は檀家の中でも一番遠いお得意様のところに行っており今夜はフィーバー、帰ってこないという。男は小坊主に自分が出家したい旨を話した。
 しかし一介の小坊主がそんな大切なことを一存では決められるはずがない。住職の帰ってくる明日にでもどうぞ。とは言ってみたものの男に帰る場所などないと言われてしまった。

 実は小坊主は内心かなり怯えていた。大きな声がして呼ばれてみればそこには河童。いや頭から血を流した珍妙な髪型の男が刀を携えて立っている。自分はここで殺されてしまうに違いない。あー神様仏様、どうやったら逃げれるのか教えて。即座にテンパってしまった。真っ先に神様なのかと突っ込みたいところだが小坊主にとってはそれほどの異常事態だったのである。

 さて、この河童の目的も判ったことだし命の危険はないようだ。仕方無い。取り敢えず何か食べさせて今日のところはお引き取りいただこう、そんなふうに考えた小坊主は渋々男を寺内にあげることにした。

 小坊主が用意していた夕飯を分けてもらいながら男は小坊主とは日々どんなことを行うのかを尋ねてみた。ゆうげは腹に染み込むようだった、しかしどう見ても年下の小坊主が目の前に居る手前がっつくわけにもいかない。質問も極めて平静に聞くように努めた。

「夜明け前の起床から始まるエブリディ。果てなく続く寺の清掃。酒も飲めない檀家回り、台所周り。退屈な写経、眠くなる読経、故に独唱。疲れ切った体にのしかかる好き者住職の床相手」
 小坊主はなるべくなるべく僧職が魅力的に見えないように話をした。つまり盛った。

「なに?住職の相手とな?」
 小坊主が言うに住職はことさらあれが好きな生き物なのだという。これには男も驚いた。なにせ自分は女とまぐわいたいと願って生恥をさらすことも辞さずここに来た。だのに小坊主の勤めは斜め上方にカッ飛んでいる。困った。他の事ですら面倒過ぎることが目に見えているのに、それ以前に貞操の危機とな。
 男は小坊主に剃刀を貸してもらえるように頼み、頭髪をそり落とした後は必ず寺を出て自分は托鉢の旅に出るという約束をした。出て行ってもらえると安心した小坊主は喜んで剃刀を貸し水場へ案内する。

「なんだっけあの難しい名前、あぁ法名っつの?それはどんなのがオススメ?」
 男は剃刀を頭にあてながら小坊主に法名について聞いてみたのだが、いろいろ難しそうな音ばかりでよくわからない。しかも下を向いて頭を剃るものだから頭に血がめぐって非常に苦しい。

「やって。お願い。やっちゃって」
 結局嫌がる小坊主に無理やり頼み込んで頭を剃って貰うことにした。目を閉じて身を委ねながら迷想の続きをしてみるが法名など全く浮かぶはずがない。ムズイ。

「あーもう『無瑞』(むずい)でいいや」
 こうして男は無事にセルフ出家したのである。無瑞は小坊主にもう古くなって着ない法衣がないかを尋ねた。しかし余った法衣などないという。ちょうど雑巾にする予定だった十得ならあるというのでそれを貰い受け、約束通り夜もふけた寺を後にした。ちゃんとした法衣でないその姿は一見怪しい茶坊主の出で立ちであったが無瑞はそれでも大満足だった。だってほんの数時間前まで死ぬところだったのだから。

 上々上々。夜風は剃りたての頭に気持ちが良い。おもむろに鞘に入った刀を地面に立てて手から離すと右の方に向かって倒れた。無瑞がそれを拾い上げ、ひょいとそちらを見上げると三日月。良い感じの月がこちらを見ている。
「よし、こちらに行くとしよう」

 刀を持った茶坊主が鼻歌を歌いながら一人夜道を歩いている。
 なんだかすげー物騒な話だ。

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ジャングルへの帰還 ― ジャングルノート11話【完結】

この記事の所要時間: 3 11

 そういえば本の表紙には作者の名前が無い。あとがきのページをめくるとやっと作者の名前を見つけた。やはり作者はフランス人のようだ。訳者のところには「訳したあなたの名前をここに書いて下さい」と線が引いてある。そこには前の持ち主が書いたのであろう手書きの署名が小さく施してあった。

 目玉が頭蓋骨の中で揺さぶられるような、鈍器で殴られるのに似た衝撃が襲ってきた。目の前の空間がぐらぐらと歪む。何故だ。何故ここに自分のサインが書いてあるんだ。
 作者の名前を見てみると『Jean Loussier』となっている。何が一体どうなっていると言うのだ。何故お前がジャンの名を名乗っているんだ。ジャンは死んでライオンにその姿を変えたのではなかったのか。どうしたらジャンがこの本を書くことができるっていうんだ。お前は一体誰だ。一体何が起きているんだ。読後の満足感などあっという間に消え去ってしまう。

 少し落ち着こう。周りを見回して時計を見ると11時15分を指している。まだ午前中だったのか。待てよ、そういえば自分はいつこの本を読みはじめたのだろうか。
 署名の下には『SN:3/6』とシリアルナンバーらしきものが印字されている。自分はこの本を読むのが初めてでは無いのかも知れない。この記号にはどこか見覚えがあるからだ。見たことのない何処かの街中でこの本を買い求める自分の姿さえ思い浮かんだ。

 何もかもが最悪な気分だ。まるでどこかの誰かに操られているような気がする。仏和辞典を取り出して本のタイトルを調べてみると原書の名前には「ジャングルノート」とあった。なにが「ジャングルのせかい」だ。最初からこれは本ですらなく作者のノートだったということか。
 すっかりただの作り話だとばかり思い込んでいたこの本に、今度は自分が馬鹿にされている。頭はなんとか理屈をつけようと足掻く。何かが狂っているのは確かだ。まるで最後に書かれていた世界の果てのようにこの瞬間こそが流されている気がした。世界が交差して何かがぐにゃぐにゃと形を変えている。猜疑心が煽られている。

 ーー物語というものは物語の世界の中だけでは終わらない。
 最後の章にはたしかこう書かれてあった。

 ーーせいぜい楽しめ、命を大事にな
 黒豹のセリフはこのことを指していたのだろうか。

 ーー物語の延長にはいつも現実があり、現実の先には物語がある。見知らぬ友へ、良き旅を。

 ジャンの墓に戻ったとき、逆流する滝は消えて無くなっていた。道を反対に進んだときにストーリーは変わっていたってことか。最初から読み直そう。もう一度黒豹に会って質問をしなければ。クロコダイルに会って教えを請わなければならない。今から読んだとしたら話の内容が変わってくるのかもしれない。

 ーー全ての可能性の路があることを否定すること無く受け入れるのだ。他人の声というのもそのうちの一つになるだろう

 すべての可能性を否定してはいけない。サイコロを持っていこう。机の脇の引き出しからサイコロを探したのだけれど見つからない。ジャンの墓に埋めたサイコロを今度は掘り出そう。
 ページの隙間から栞がハラハラと落ちた。忘れないように机の上に残っていたチョコレートをズボンのポケットに入れる。ライオンはチョコレートが大好きなはずだ。

 現実と物語の節々が絡み合い、意識したことの無かった世界の揺らぎをはっきりと感じている。全くとんでもないものを読んでしまった。

 『ジャングルへの帰還』
 自分のノートに足跡を残す。

 ゆっくりと本の表紙に目を遣る。シルクハットを被ったクロコダイルが嬉しそうな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

 << 了 >>

読了 ― ジャングルノート10話

この記事の所要時間: 6 51

八章:この世の果て

 遂に長かったこの手記にも旅の終わりを記す時がきたようだ。私は今、海の孤島に浮かぶ病院のベッドで此れを書いている。こんなとるに足らない今の私の状況など書くことは関係ない気もするが物語というものは物語の世界の中だけでは決して終わるものではない。物語の延長には現実があり現実の先にはいつも物語が転がっている。

 あの時、私達はジャングルの中を大きな円を描くように進む予定だったのをやめ、出発地点へそのまま折り返すルートを選んだ。見ることのできない景色も沢山あったことだろう。しかし私達は間違ってはいなかった。なぜならば私はこれを書くことができたのだから。

 ライオンに出会った後、私の世界は一変した。ジャングルに来て以来ずっと恐怖に怯えていた眼はこの世の全ての色に正しく向けられるようになった。黒豹の言っていたことを理解した。クロコダイルは真理を教えてくれていた。それでも彼らの意思を汲み取れず悩み苦しんでいた自分を最後に救ったものは肯定だった。世界はずっと前から眩く光りながら私に向かってその手を差し伸べてくれていたのだ。

 帰路を歩み始めてから二週間程経った頃、私達はある異変に気がついていた。進んでも進んでも一向に景色が変わらないのだ。キャンプにふさわしい野営場所を決める際、以前に来たような錯覚を覚えていた。計器の故障も疑った。しかしなにもかもが恐ろしく正確に動いている。昼と夜は規則正しく明け暮れ、ただ無闇やたらに時だけが過ぎていく。そして私達は自ら付けた目印によって、同じ場所をグルグルとまわっていることを確信するに至った。

 私達は目につく一番大きな木に物見台を作ることにした。下手に動くのは危険と判断した訳だ。二日もかけて作り上げたそれは十二分に立派なものだった。
 一人一人交代でそこに登り、何か目印になるものを探す。私達は目を疑った。地球は丸いなどというのは真っ赤な嘘だったからだ。そこから見える360度の地平線にはぽっかりと大きな窪みが口を広げている。世界は大きく歪んでいた。そしてそれは私達の場所を中心にゆっくりと右から左へうねるように動いている。コンパスでさえもそのうねりに惑わされていた。私達は目先の目標に向かって真っ直ぐ向かってはならなかったのだ。ただ帰るべき場所へと向かわない限り決してここを抜け出すことなどできる筈がなかった。そう、うねりもコンパスも無視して。

 私達は初めて全員で意見を出し合った。この場から出るために何ができるのか。全員の思いはただ一つ。生きてここを抜け出すことだ。そこには階級も学歴もなかった。私達はうねる大地に規則性を見つける必要があった。幸いなことにまだ充分な水も食料もある。私達は交代で物見台に登り規則性を探そうとした。だが、残念ながらそれを見つけ出す為には膨大な時間がかかるように思われた。
 そんな最中に殴り合いの喧嘩が起きた。探検を始めたばかりの頃ならばともかく、死線を共にしてきた私達にとって其れは久々の大事件だった。何の事はない。原因はギャンブルでの争いだという。

 フランスのパブに行くものなら誰でも知っている421というゲームが有る。ダイスを3つ振り、出た目の役を競うゲームだ。名前の通り421が出ると最高役になるそのゲームでは役を競うために1がキーの数字になっている。それが何回ダイスを振っても全く出ないというのだ。私達はイカサマかどうかを言い争う二人を羽交い締めにして縛り上げた。なんという温厚な解決策だったろう。ギャンブラーの端くれだった私にとって二人の喧嘩はどこか懐かしく、こんな時であるのに笑ってしまう余裕さえあった。

「ちょっとまってくれ!」
 久しぶりの殴り合いに賑わう仲間達を制したのは他ならぬ私だった。おかしい、絶対におかしい。相手に振らせるダイスをすり替えることは難しい。だからもしもイカサマをするとしたら自分が振るためのダイスを隠し持つのが普通だ。そのダイスが1を出せないなんてわざと負けたがってるようなものではないか。私は自分のテントに駆け戻りダイスを探した。自分のダイスを握りしめ、テントから飛び出して仲間達の前に立つ。

 二十を超える眼の前で自分のダイスを振った。
「3・3・3」「4・2・5」「5・4・3」
 私のダイスでもやはり1の目は出なかった。その場に居ない昆虫学者を仲間が呼びに行く。昆虫学者がやってきた後も私の3つのダイスは決して1の目を出すことはなかった。学者の観察力は流石としか言いようがない。彼は高らかにこう宣言したのだ。この場所で振るうダイスの1と6の目は常に同じ方向を指していると。

 丸々一日を費やし、何千、何万とダイスを振った私達はダイスが常にコンパスとも異なる規則正しいある方向を指していることを突き止めた。日が明けるのを待って、常に目が6を示す方向に向かって歩き出す。理屈なんてどうでも良かった。ただそこにある事実と微かな希望だけが私達を突き動かしていた。コンパスが正しく機能する場所にさえ辿り着ければ良い。そして物見台を出発してから一週間後、遂に私達は見知った場所へとたどり着いたのだ。

 それはジャンの墓標だった。ジャンの墓標は私の文字を刻んだまま、何事もなかったかのように佇んでいる。不思議なことにジャンの命を奪った逆流する滝はどこにも見当たらなかった。私はもう必要の無くなった私のダイスを墓標の下に埋めることにした。

 それからの私達はもう迷うことはなかった。コンパスは正しく未来を指し、私たちは思い出を辿るように来た道を歩む。しかし私達の見知ったあの不思議な世界は面影は残っているものの忽然と姿を変えてしまっていた。そこには葉巻をふかすクロコダイルも、流暢なフランス語を操る黒豹も居なかった。蝶の墓場に至っては花が咲き乱れる只の樹木だった。私達は一様に違和感を感じながら、それでも出発地点のジャングルの外の村まで無事に辿り着くことができた。

 その後祖国に帰った私は小さな貿易会社に就職し会計士の仕事を続けた。ギャンブルに対する興味は不思議と消えていた。そして世界はあの激しい戦争に突入する。ジャングルを出てから良いことも悪いことも全て自分の意志に従うことに決めていた私は戦争に乗じて最後のギャンブルをした。そして人生を賭けた勝負に勝った私は大金を得ることになり、戦争が終わるのを待って祖国を捨てる。贅沢をせずに暮らすには充分だった。それから何もない平和な数十年の歳月は流れ、年老いた私は人生の最期を迎えようとしている。

 今になって思えば、あの最後に迷った場所は世界の果てだったかもしれない。それとも始まりの場所だろうか。終わりと始まりはとても良く似ている。私は天に召される前にあの場所の上を通ることができるのだろうか。今はただ静かに答えを待つのみだ。

 私のジャングルのせかいはここで終わる。やっと書き上げることが出来た。これが最初で最後の手記になるだろう。ここまで読んでくれた君に会うことはないだろうが感謝する。どうか最後にこの言葉を受け取って欲しい。

 正しい答えはすぐ側にあっても目には見えない。真などと呼ばれるものはその時点で判断される一つの形でしか無い。
 君よ、決して惑わされるな。君にとっての正しい答えは君にしかわからないものなのだ。

 見知らぬ友へ、良き旅を。

 ーー ジャングルのせかい 完 ーー

 やっと読み終えることができた。体にはいつもの読後のような気怠さと爽やかな満足感のようなが残っている。面白かった。しかしそれとは別になんだか妙に引っかかるところもある。

『黒豹の歓迎』
『ジャングルの決意』
『最後の煙草』
『死の鱗粉』
『未来への道』
『マルセイユ』
『追想の夜』

 本の脇に開かれた自分のノートには感じたままに綴られた言葉が章ごとに並んでいる。この最後の章はなににしようか。もうこの作者はきっとこの世を去っているだろう。その気持ちも込めて「この世の果て」としたのだろうか。随分メッセージ性の高い本だった。語りかけてくる内容も多かった。そのせいなのか果てという言葉に少し違和感を覚えている。どんな言葉がいいのだろう。

 少しのどが渇いてしまった。水でも飲もう。

追想の夜 ― ジャングルノート9話

この記事の所要時間: 3 6

七章:知られざる夜会

 長くなった私の手記もそろそろ終わりを迎えようとしている。しかし私は書こうと決めたことのうちの一つをまだ書いていなかった。忘れてしまう前にここに書き留めておこうと思う。

 ジャングルの中では誰もがそれぞれのルールで生きている。それは縄張りであったり活動する時間帯であったり。それが種によって異なるのは至極当然なことだと思う。しかし其れらの全てが無視される夜がジャングルにはある。私達は其れをジャングルの夜会と呼んだ。
 夜会が行われるのは新月の夜だ。その日は朝からジャングルは静寂に包まれ、日中に生き物を目にすることは難しい。アリの一匹も見かけず、虫の羽音一つ聞こえないジャングルは一種異様で、その日だけは私達も行軍しない事に決めていた。

 私達にも一応の役目はあった。そのときだけはキャンプの周りに特別な香を焚くのだ。ジャングルに入る手前の村でこれを焚かないと死んでしまうと聞き、相当な量の堅いそれを分けて貰っていた。初めは半信半疑だったものの実際にあれを見た後には香がいつ無くなってしまわないかと心配する程だった。

 なかなか来ないと思っているジャングルの夜更けは日暮れとともにあっという間にやってくる。辺りが暗闇に包まれ、鳥の鳴き声が聞こえてくると私達は夜会の始まりを知った。慌てて香を焚き、松明をすべて消して自身のテントに潜む。樹の葉が揺らしながらジャングルの生きとし生けるもの全てが誘い合わせたようにその姿を現わすのを待つのだ。香を焚いた私達のキャンプには彼等は決して入って来ないだろう。もしも無かったとしたら私達は祭りを彩る生贄となっていたに違いない。

 圧倒的な怒号にも似た声が辺りを包む。大型動物の足音がキャンプのすぐ側をかすめて行く。私はテントの隙間からこっそり外を伺い見る事があった。どうしても衝動を抑えられなかったのだ。夜のジャングル全体がオレンジ色に照らし出されている。あれは何かが燃えているのだろうか。しかし焦げた匂いはなにもせず、炎によるものである筈が無かった。

 得体の知れない光を背に動物達は踊り狂う。四足動物達は後ろ足で立ち上がり獣道をうねり歩く。そこには捕食者も被捕食者も無い。いつもはおとなしいゴリラでさえ咆哮を上げて胸を打ち鳴らしていた。クロコダイルは狂ったように尾で水を叩いているようだった。木の上を何匹もの動物達が飛び交っている。虫の羽音もガリガリと何かを削るような甲高い音で響き渡った。極楽鳥の声は更に彼等を狂わせるように艶を帯びた嬌声を奏でている。

 その日だけはジャングルは一体化した生き物のようだった。人間は息を潜めて夜会の終わりを待つしか無い。狂乱の宴はなんだかとても楽しそうで私は外に飛び出して彼等と共に過ごしたい衝動に駆られていた。私は思う。私が見た光の正体はきっと命が燃えている光だったに違いない。
 思い出しただけでも胸が熱くなる。できる事ならば死ぬ前にもう一度だけあの夜会を見てみたい。夜会だけではない。今も時折ジャングルのあの日々を思い出してはあの場所へと帰りたいと考えている。あんなにも沢山の恐怖を覚えたはずのあのジャングルに。
 これを読んでいる君が興味を持てるのであれば一度はジャングルに行ってみることをお勧めする。それは君の人生観を全て打ち壊し新たな価値観を与えてくれるだろう。人生はカーニバルだ。それに気が付いてしまうのはギャンブルかも知れないが、知りたいと思うのならば早い方がいい。その為にだったら命を賭けることさえも十分に見合うものではないか。
 
 命は良く燃える。それも信じられない程に。
 
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マルセイユ ― ジャングルノート8話

この記事の所要時間: 4 48

六章:迷い込むライオン

 外の歓声をよそに、私は笑いながら涙を流していた。何のための涙なのかは解らない。祖国へ早く帰れる喜びなど無かった。全てはまやかしだということは判っている。早く帰れると言われたところで祖国へすぐにつく訳ではない。生きて辿り着ける保証もない。たとえ帰れたとしてもそこで何をして生きていくというのか。そもそも私は一体ここで何をしていたのだろう。このジャングルの旅は私に一体何を与えてくれたというのだろうか。答えはまだ見つかってない。私は諦めることにすら疲れてしまっていた。結局のところどうにもならないことをそれなりにやり過ごしているだけなのだ。
 そんな思いを巡らせる私のテントにガサゴソとする物音があった。とっさに涙を拭い、未知の来訪者を待つ。果たして入ってきたのは一頭の雄ライオンだった。

 私は息を呑んだ。何故こんな所にライオンが居る。此処はジャングルのど真ん中なのだ。一体どこから迷い込んで来たというのか。ライオンは見るからに弱り痩せこけていた。其れでもゆうに私の二倍程もあるそれが直ぐ目前に居る。こいつはこれから私を喰らおうというのか。私はライオンの目から目を逸らさぬようにゆっくりとベッドの下のバッグへと手を伸ばした。小さなデリンジャー。私はそれを脇腹に構えると彼に話しかけた。

「フェアに行こう」
 私は殺されるかもしれない、しかしこいつも死ぬかもしれない。ライオンはグルグルと喉を鳴らしながらじっとこちらを見ている。黒豹やクロコダイルのように流暢なフランス語を話せやしないのだろうか。汗がじっとりと背中に吹き出し、すぐに冷たくなってシャツを張り付かせる。そんな私を気にすることなくライオンはテントの入口に寝そべりだしてしまった。これで私はここから駆け出して逃げることが出来なくなってしまった。

 ほら見ろ、頭の中で嘲笑が聞こえる。つかの間の喜びなどいつも簡単に覆されてしまう。その度に慄き、運命を呪い、立ち向かい、乗り越えては必要以上に安堵する。俺はそんな単純な生きものなのだ。もううんざりだ。こいつに殺される運命ならば其れでもいい。
 一向にテントを出て行く気配のないライオンを見ながら私は本気でそう思い始めていた。デリンジャーをベッド脇の簡易椅子の上に置く。勝手にしろ。そうだ、チョコレートがあったはずだ。乱暴にリュックの外ポケットからチョコレートを取り出すと半分に割ってライオンの方に放り投げた。自分でも其れを食べてみせる。ライオンは疑い深くチョコレートを舐めるとゆっくりと口に入れて咀嚼した。こいつはジャングルで初めてチョコレートを食べたライオンになるのかもしれない。そんなくだらない事を考えてニヤつきながらもまだ死への恐怖はしっかりと残っている。時折見える牙の隙間からくぐもった咀嚼音が出る度に背中に凍りつくような痺れが走るのを私は食い止めることが出来なかった。私に出来る事などもう何も無い。ただこのライオンが出ていくのを待つか、襲ってきたらせいぜいの抵抗をするだけだ。

「もう何をしたらいいのか自分でも判らないのだ」自然と口から言葉が出ていた。
「私は人生を踏み外してしまった。迷い路に入り込んでしまった。私にもまだ何処かに違う生き方が有るのかもしれないと思った。けれどこんな辺境の地に来てさえも私は私でしかない。結局何も変えることなんてできやしなかったのだ。一体お前はどこから来た。サバンナがこの近くにあるのか。それとも何処か住みやすい場所を探していたのか」

 ライオンは少し悲しげな顔をしているように見えた。そうだ、この顔には見覚えがある気がする。
「ジャン、お前はジャンなのか」
 ふと頭に浮かんで口に出してみた問いかけにもそいつはやはり無言だった。彼はスクっと立ち上がると、くるりと後ろを向いてテントから出て行こうとする。それはあまりにもあっけなかった。私はまた生き延びてしまうのだろうか。外のテントからはまだ笑い声が聞こえて来る。突然身体がガクガクと震え始めた。我慢していた恐怖が後から押し寄せてきていた。震えを抑えろ。私が今するべきことは震えることなんかじゃない。

 アロン ゼン-ファン ドゥ ラ パトゥリー ウ! ル・ジュール ドゥ グロワール エ タ-リヴェ!ーー祖国の子どもたちよ!栄光の日はきたれり!

 

 私は震える声を怒鳴り声に変えて歌い始めた。一瞬の静寂の後、外からは仲間たちの歓声が上がった。テントの外から次々と歌声が増していく。ライオンよ。私も生きる。お前も生きろ。そうだ、私は自分は運良く死を免れているだけなのではないかと薄々気が付いていた。ただそれを確信する事ができないでいたのだ。しかし確信した。私は何者かによって生かされている。生きている理由など其れで充分ではないか。私はここに来て初めて自分が間違いなく生きて帰れるだろうと思った。祖国へ帰ることが現実に起こると信じられた途端、それは紛れもない喜びへと変わっていった。そうだ私は守られている。その確信は歌えば歌う程大きくなっていき、強く私を鼓舞していく。震える声はもうない。先程までとは違う涙が頬をつたう。私は更に声を絞り出していた。

 プウープ、ヴーブ ブリーズ ブォス-フェ! イ-ヴォス アウズィーン パトゥリ!
ーー民衆は縛られた鎖を引きちぎる。お前はお前の国を持っている!

 あのライオンがジャンである筈など無いだろう。けれど私はあのライオンが何処か安住の地にたどり着くことをだけを願い声を上げる。誰にも気づかれずここを逃げろ。

 暗いジャングルの空に祖国の歌が溶け込んでいく。

<目次>

未来への道 ― ジャングルノート7話

この記事の所要時間: 2 56
五章:逆流する滝

 私は現実とは何かということを真剣に疑問に思い始めていた。ジャングルに入ってのこの数ヶ月間、実に多くの不思議な光景と仲間の死に立ち会って来た。だがそれを現実として受け止めきれていないのだ。例えばもしもこれが本の中の世界だとしたらどうだろう。私は喜んでそれを受け入れるに違いない。たとえそれが私が存在しないという事を意味していたとしても。細く色白だったはずの体が今では褐色に焼けてうっすら筋肉さえ浮かんでいる。そのことだけが自分は生き延びたのだという実感を与えてくれた。

 先の方から水の音が聞こえて来る。おそらく滝でもあるのだろう。誰もが同様に歩を早めた。水源に近づくにつれ辺りはどんどん涼しくなっていく。果たして目の前に現れたのは凄まじい勢いで逆噴する巨大な水の柱だった。それは横幅が10メートル、厚さが2メートル程もあり、冷たい水が天まで噴き上がっている。私達は水の中に手を突っ込むと久々の新鮮な水を味わい顔や頭を洗った。給水タンクへとこの先の備えもした。
 
 肘まで手を入れたところで背中に妙な予感が走った私は慌てて腕を引き抜いた。水流に体を持っていかれそうになったのだ。ふと右を見ると下着一枚になった仲間が水浴びをしようと足を踏み入れようとしているところだった。
「やめろ、とまれ!!」
 私の背後から隊長の怒号が聞こえた。隊長の方を振り返る隊員たち。しかし時すでに遅く水浴びをしようとしていた隊員は水の中へと吸い込まれていった。数人がその場所に駆け寄ったが彼の姿はもう見えない。私は彼が水柱の反対側に飛び出ているのではないかと裏側へと走ったがそこにも彼の姿はなかった。
 
 すぐに隊長の号令で整列と人数確認が行われる。幸いなことに彼以外は全員無事だった。私が感じたあの違和感を隊長も感じたのだという。しかしそれに気付くのが遅すぎた、彼を制止するのが間に合わず申し訳ないという謝罪が隊長からあった。昆虫学者が事の起こりを説明する。誰もが久しぶりの水を見て浮かれていたのだろう。今の今まで誰もが一つの奇妙な事実を見過ごしていた。
 
 ”噴き上がった水がどこにも落ちてこない”
 
 昆虫学者はこんなことは絶対にあり得ないと言いながらも力説した。これはおそらく滝のようなものであると。重力に逆らい水が下から上に落ちているのだという。私達は一様にゾッとした。それではさっきまでの私達は滝の上から頭や手を突っ込んでいたというのか。私が感じた嫌な予感は水流に吸い込まれる感覚ではなく、落ちるかもしれないという感覚そのものだったのだ。
 
 一晩キャンプを張って待ってみたものの彼が落ちてくることはなかった。私達は滝の脇に脱ぎ捨てられた彼の衣類を埋めて墓標を立てた。ジャンという名前以外、ファミリーネームさえも知る者はなかった。仕方なく私の考えた墓碑銘がそこには彫られることになる。
 
『ジャン、未落の滝に眠る』
 私は祖国よりもなによりも現実に一刻も早く帰りたかった。声に出してしまったら叫び出しそうだった。あと少しで迂回して戻る地点というところまではもう来ているはずだ。
 

 翌日の夜、迂回ルートを更に変えて予定よりも早くジャングルを抜け出すことを目指す通達がなされると、外のテントからは地響きのような歓声が湧き起こった。ルームメイトだったジャンの居なくなったテントの中、私は笑い出していた。

この世界は人の死こそが未来を作っていくのだ。

<目次>

チョコレートの栞 ― ジャングルノート6話

この記事の所要時間: 1 44

 机の上に造作なく置かれていたチョコレートの箱を千切り、栞の代わりに本に挟む。

 
 やっと半分程読み終えた。もうとっくに読み終わると思っていたのになかなか読み進まない。この本に書かれていることは全くの作り話なのだろうか。それにしては妙な臨場感があり時折カラフルな絵が頭の中に飛び込んでくる。作者の心情は乾き過ぎていて良く分からない。現実の世界の事ではないと頭では分かっているが現実と虚構が捻れて不思議な感じがする。フワフワしている。実は全て本当の話なのではないかとすら思い始めている。
 
 そもそも本というのはそんなものかも知れない。紙の中に閉ざされた世界。こちら側から本の世界を覗くことはできる。しかしあちら側からはどうなのだろう。この世界こそが本の中である可能性は無いのだろうか。いや、そんな考え方はおかしい。そもそも明らかに虚構とわかるこの本を読んでどうしてそんな事まで考えなくてはいけないのか。こんなのどこにでも転がっている子供向けの絵本みたいな話じゃないか。
 
 妙に頭が疲れてしまい、タバコを吸うことにする。吐き出された煙の残煙が頭の奥にニコチンを流し込む。そうだ、この話は緩やかに頭の中に流れ込んでくるのだ。
 もしかしたらこの本には幾つかの本当の事が紛れ込ませてあるのだろうか。そして其れこそがこんな馬鹿げた事を考えさせているのかも知れない。まるで朝顔の種に含まれる毒のようにそれがゆっくりと効いているのだとしたら、なんだか少しだけ説明がつく気がする。だとしたら、それは一体なんなのだろう。ギャンブルで人生を踏み外した男、会計事務所に勤めていた男。それくらい事実が紛れ込ませてあるくらいでこんな風になるだろうか?
 
 ーーこの作者は過去に本当に人を殺したいと思った事があるのかも知れない。 
 そんなことをふと考えた。部屋に燻るタバコの煙の奥で表紙に描かれたクロコダイルは下卑た笑みをこちらにに浮かべているように見える。
 
 本に戻るとしよう。