ミノタケ

この記事の所要時間: 4 32

 文具店の中は消しゴムの微かな香りと現像液を拭きとった後のような匂いが混ざっていて、ここがただの本屋ではないことを主張していた。なんで俺はここに居るんだっけ?確か失恋したか何かでとても疲れていて、トボトボ歩いていただけなのにいつの間にやらこの店に吸い込まれてしまったのだ。秋。

 店主は俺を見るとスックと立ち上がり、眼鏡奥のキツネ目から俺を品定めしているようだった。
「折角寄っていらしたのですから、どうぞこちらをご覧ください」
 そう言ってキツネ目がショーケースから取り出したのは沢山のペンだった。瑠璃色の天鵞絨に化粧されたトレイの上に綺麗に並べられている。俺はこいつはきっと気が狂れているに違いないのだと得心する。俺にこんな高そうなペンなど買えるものか。
 黒と赤がマーブルに塗り上げられているものやら、純白の中に乳白色のオーロラ模様が埋め込まれた宝石のようなペン。とにかく全てが高そうだ。
 対して俺はといえばリアリティ・バイツの三人がプリントされた寄れ寄れのTシャツに尻ポケの上の毛皮のパッチが気に入っている裾の切れたジーンズ、鼻緒はもう色褪せた下駄といういでたち。
 そもそも字だってとても下手くそなのだ。高いペンを持つには値しないことなど十分心得ている。段々と怒りがこみ上げてきてキツネ目を睨んだ。俺をからかっているのか。

「そうですねぇ。お客様にはこちらなどお薦めかと。シンニのペンでございます。こちらを使っていただきますといつもと違う文章が書けるのです。どうぞお試し下さい」そう言ってキツネ目は黒と赤のマーブル模様のやつを俺に渡してきた。

『確かに良いペンかもしれませんが僕にはこんな立派なペンはとても似合うとは思えないですがね』とは言えなかった。
 取り敢えず字の汚さだけでも見せて諦めさせようと試し書きをしてみる。

“ファァァァァック!!俺はお前のような人を見下す野郎は本当に大嫌いだ。胃の中にある全ての胆汁をここにブチまけたいほど反吐が出る。俺は今このペン先を貴様の手の甲に突き立てたい衝動を猛烈に耐えているのだ。
わかるかこのクソ野郎が!”

 ペンは勝手に動き出して思っても見なかったような酷いセリフを紙の上に書き出していた。
「そのようにそのペンは怒りの感情を書かせてくれるのです。他には〜」何事もなかったようにキツネ目はペンを渡してくる。興味が出て来た自分は促されるままに書いてはみるのだけれど、次々と渡されるどのペンも普段では浮かばないようなセリフばかりをどんどん勝手に書きだしていくのだった。

「どれになさいますか?」
何本も試し書きをさせられた後、店主は買うのが当たり前のような前提で尋ねてきた。よくわからないがこの大量にあるペンは自分の中の特定の欲望を忠実に書き出せる力を持っているらしい。
「一本どれでも千円になります。但しお買い求めになれるのは一本だけです」Leeのポケットをまさぐるとクシャッとした紙幣の感触があった。こんなペンが千円で買えるというのか。とても良い買い物な気がする。然しこんな物を買って一体どうするというのだ。自分がさんざん裏切ったせいで遂に逃げて行った女への恨み言でも書けば良いのか。それとも有り余る性欲でも書き散らかしていつかの自身への機智として蓄えておけというのか。其れは其れで楽しいかもしれない。悩む。

 答えを出すためにどれほど時間が経ったのだろう。なんだか頭がボーっとしてウヮンウヮンと耳鳴りがしていた。喉が渇いて歯が尖っているような気もする。結局一本の筆記具を買って店を出ると季節は冬になっていた。まったく意味がわからない。とても寒い。冷たい下駄をカランコロンといわせながら急いで家まで帰った。

——–

 あれは何ですかと俺は尋ねた。キツネ目の眼鏡の向こう側に銀色の何かが見えたからだ。
「あちらでしょうか?あちらはただの鉛筆です。あれも千円になります」
 あれは何が出来るのかと更に尋ねてみる。
「取り敢えず何か書けます。貴方が思っていることを」

 そうか。普通の鉛筆か。
「あれを下さい。銀色の鉛筆を」
 ブゥゥゥーン!グゥアゥッ!バッキーーーーーン!
 グレッチでフルスイングされたような音と衝撃がコメカミにやってきた。耳はキーンと高音を奏で、鈍痛ではなく鋭痛が耳がまだ付いていることさえ疑わせた。俺は横っ飛びに吹っ飛んでいた。グレーになった世界にキツネ目の男の声が続く。

 オレヲ誰ダトオモッテヤガル。
 折角お前に本当の欲望を吐き出サセテやろうとしたのに。。
 ペンが何本あったかを数えなかったのか、勘の悪いやつめ。
 お前を地獄の猛火で焼いてやりたくてたまらない。
 忌々しい偽善者ぶりニ反吐が出る。
 お前だって結局血の流れている人間なのだ。
 欲望まみれの低俗な己を判っているだろう。
 俺はお前だったんだよ。折角のチャンスを不意にしやがって。
 頭痛は俺からのプレゼントだ。
 そのままいつまでも楽しむといい。

——–

 早速買ってきた鉛筆で試し書きをしている。あの後に文具屋で起こったのはこんな感じだった。最後の衝撃はまだ残っており、記憶はドンドン無くなっていくような気がしている。

 世の中、金と銀の斧を差し出されたら、間違っても鉄の斧は選ばないのが良いのかもしれない。少なくとも殴られずには済む。

狐祭り

この記事の所要時間: 1 34

 夏祭りの社。

 橙色の提灯の明かりがボンヤリと屋台道を照らしている。ふと見ると狐の面がこっちを見ていた。少し神経質そうな後ろ姿をした男が立ち止まる素振りもなく歩いている。そんな男の後ろをちょっと離れて付いて行く南天柄の白い浴衣の女。狐の面は女の後ろ手にひょいと乗ってこちらを見ている。

 突然女は男の浴衣の袖を引っ張り足を止めさせた。大正眼鏡を掛けたとても気難しそうな男の横顔が見える。どうやら女は林檎飴をねだりたいらしい。渋々という言葉はこんな時のためにあるように男は懐から財布を取り出して林檎飴を買った。

 女は無邪気に林檎飴を受け取るとペロリとそれを舐める。白い浴衣に南天の赤、赤い林檎飴は屋台の明かりで光っている。狐面の赤い隈取が更に鮮やかさを増した気がした。

 男が何やら店番と話している間に女にこちらの視線を気付かれてしまった。びっくりするほど白い綺麗な顔の上で赤い口紅がニッコリと笑う。なんだろうこの違和感は。目を逸らせたいとは思っているくせに逸らすことが出来ない。

 男は話が済んだらしくまた歩き出した。女は林檎飴を持った手でひらひらとこちらに手を振るとぴょんぴょんと跳ねるように男の後をついて行ってしまう。なにかに化かされたように取り残された自分にふうっと意識が戻ってきた。
 夏祭りに浮かぶ白い浴衣。南天、口紅、林檎飴。まだ目は女の後ろ姿を追っている。赤と白のなんだかクラクラする意識の中で一つのことだけがはっきりと浮かんだ。

 ーーあの男は喰われるのだ。
 その言葉の恐ろしさに「ヒェッ」と声が出そうになるのを堪えると遠くを行く狐の面がニコリと笑ったような気がした。

 祭りは盛り上がりを増していく。大きくなるお囃子の音がたった今起きた目の前の不可思議を空の遠くへと掻き消そうとしているようだった。

裏道メルヘン

この記事の所要時間: 1 16

 ふっと入ってしまった横道にはなんだかよく分からない標識があった。

「行き止まりません」
 行き止まりがあるというのならば解るのだけれど「ない」とは一体どういう意味なのか。表通りから見えたビニールのひらひらが垂れ下がる三輪車のせいで、ついつい寄ってしまったこの小道。実際なんだか少しおかしい。

 乾電池の自動販売機。錆びついた家族計画。庭先に見える二層式洗濯機。ホーローの看板。なんだか懐かしい物ばかりが並ぶ。もっと見たくてついつい奥へ吸い込まれてしまう。こんな辺鄙な所にある丸ポストなんて一体全体誰が回収に来るというのか。
 塗装が剥げた井戸のポンプ。緩んだ電線の木が痩せた電信柱。ミリンダ自販機。アナログアンテナ。屋根上にあつらえた干し場。
 覗き窓がくすんだガチャガチャの銀盤には二〇円とだけ書いてある。煮物の香りはするくせに人のいる気配がしない。ラジオの雑音にのった妙な抑揚の男性の声だけがどこからか聞こえてくる。これはいささか良い道を見つけた。まるでセピア色の小道ではないか。

 あっという間に通り抜けると、そこいつも良く知る大通りだった。見上げれば日陰を作るためだけにあるようなビル街。もうそろそろ昼休憩も終わるはずだ。少し遠回りになってしまうので来た道を戻ろうかと振り返ると、果たしてそこには道などなかった。行き止まれないとはそういう意味だったかと合点がいく。

 たまには化かされるのも悪くない。僥倖、僥倖、べりーらっきぃ。

微熱ビール

この記事の所要時間: 0 34

微熱ビールは酒なんかなくたって酔える。
ベッドで一人ダリの絵を真似して見たり、本物のビールも薬になるのではないかと考えたり。

そうだ、どうして曇り空は陰鬱な気分になるのかも考えないといけなかったんだ。だいぶ生きてるのにまだ分からない。早く答えを探さなければまた曇り空はすぐきやがる。

足が熱を持ってビリビリとするのを感じながら悪くない、悪くないと思う。

こんなのを聞きながら微熱を楽しむのもおつなもの。

丁度歌の中でクレイジーって流れたところ。

書いている

この記事の所要時間: 1 21

過去に書いたものを書き直しているとよくぞこんなものを書いたなと思う。誰が書いたの?これ。

自分が書いたものであることは間違いないはずなのだけれど、頰をつねりたくなるような猜疑心が湧く。

冷たくなったテキストが書き直していくうちに温かみを帯びてきて、それを見ているうちに、あぁやはりこれは自分が書いたものだなと思えてくるから不思議だ。

思えばテキスト投稿サイトで色々な人を見た。友達もできた。去っていく人もいた。帰ってきた人もいた。けれどそんなことさえ関係なしに俺は俺で書きたい時に書きたいだけ書いている。いつになったら書いてきたと言えるようになるのだろう。

書くことには孤独な一面がある。なにをどう書こうかなんて余程なことがない限り自分で決めているし、残ったテキストは否が応でも自分のものになってしまう。そう考えると自分の文章には好きも嫌いもない。あるのは自分が書いたという記憶だけ、そんな風に思えてしまう。そのくせ証など何処にもない。でも俺が書いたんだよ。

書くことをいつまで続けられるのかなんて思わない。いつになったらやめるのだろうとは思うくらいだ。似ているようで全然違う。両者には遠い隔たりがある。なんだかんだ言っていつまでも書いていると思うし、こうなってくると皮肉なものだなと苦笑するしかない。いつからこんな風になったのだろう。

人に書けよとは言えないが自分には言える。何か書けよと。

日記を書こうと思っていたのになんだか別のものになってしまった。

深夜1時59分。
残り1分はとても長くて、少し短い。

仏僧物語

この記事の所要時間: 5 41

 男が座っている。
 齢は三十そこそこだろうか。まげの剃る部分、月代には生えかけの毛が目立ち無精髭も甚だしいため浪人風情に違いない。男は町の外れの道端の日陰で片膝を立て、じっと物思いに耽っていた

「誰かとまぐわいてぇ、つまりセクロスしてぇ」
 しかし住むところさえも無い男に残ったものは体のみ。残されたわずかばかりの金ではもう最期の食事を満足な物にすることさえままならなかった

「俺はこのまま死んでいくのか。もはや女とまぐわうことすら許されないのか。手元にもしも最後の三萬円、いや一〇匁でもあれば街で女を探して最後の一興をもって死ぬこともできるのに」
 だが男はそんな金など持っていない。

「しかし腹を切る気にすらなれん。というか腹が減った」
 突然湧き上がる生への欲求は男を地面に縛り付けていた無意味な妄想や怒りや諦めから解き放った。

「なにか食わねば。生き延びてぇ」
 男は少し朦朧とした頭で生き延びるための算段を始めた。無一文でも始められる商売を探そう。そうだジョブチェンジしよう。
 真っ先に思ったのは追い剝ぎだった。追い剝ぎだったら直ぐにでもできる。だが待てよ、そんなことをしたら即刻人相書きが回るに違いない。そして打ち首獄門の刑。マゲも切られた無残な姿で首だけ晒されるなんて恥だ、末代までの恥だ。ってそう言えば俺が末代になるのだったっけ、キングオブ末代、未来に子孫繁栄の予定なし。いや例え子や家族がいようともやっぱり打ち首は嫌だった。どーせ首なんてスッパリ綺麗に切れるはずない。迎える最期は地獄の苦しみに違いないのだ。
 男はそういえば自分は歌がうまかったと思い出した。よし、ここはいっちょ琵琶でも掻き鳴らしニューミュージックでもやってみようか。そしたら女にもモテるかも知れぬしヒモなんていう素敵な響きの職業にランクアップできるかもしれない。それこそ一石二鳥ではないか。しかし無理だった。そもそも琵琶を買う金なんて持っていなかったのである。

「坊さんになろう」
 至極普通の思考回路に戻って男は考えた。人に施しを受けるにしたって坊主の方が乞食よりよほどマシだろう。最悪どこかの寺で小坊主として一から始めればなんとか生き延びることもできるかもしれない。

 善は急げと持っていた刀で髪を切る。もはや武士の誇りなんて何処にも無かった。だってこのままだったらどのみち死んでしまうのだもの。脂ぎった髪を切り落とし、今度は脇差しで頭髪を剃ろうとするのだがなかなか上手くいかない。脇差しは人を切った後のようにすぐに油をまとってしまう。思えば風呂屋にもずっとご無沙汰だった。刀身に纏わり付く短い毛髪。そんなもので剃ろうとするものだからすぐに頭皮を切ってしまう。

「ダメだどうしよう。超痛いしドクドクする。刀って危ないね」
 そんな当たり前のことに今更気づいてしまい、男は髪を剃ることを諦めて近くの寺を探すことにした。

ーー

「住職はおらんか」
 声を上げると一人の弱々しい感じの小坊主が出てきた。男は住職に会いたい旨を伝えるが、住職は檀家の中でも一番遠いお得意様のところに行っており今夜はフィーバー、帰ってこないという。男は小坊主に自分が出家したい旨を話した。
 しかし一介の小坊主がそんな大切なことを一存では決められるはずがない。住職の帰ってくる明日にでもどうぞ。とは言ってみたものの男に帰る場所などないと言われてしまった。

 実は小坊主は内心かなり怯えていた。大きな声がして呼ばれてみればそこには河童。いや頭から血を流した珍妙な髪型の男が刀を携えて立っている。自分はここで殺されてしまうに違いない。あー神様仏様、どうやったら逃げれるのか教えて。即座にテンパってしまった。真っ先に神様なのかと突っ込みたいところだが小坊主にとってはそれほどの異常事態だったのである。

 さて、この河童の目的も判ったことだし命の危険はないようだ。仕方無い。取り敢えず何か食べさせて今日のところはお引き取りいただこう、そんなふうに考えた小坊主は渋々男を寺内にあげることにした。

 小坊主が用意していた夕飯を分けてもらいながら男は小坊主とは日々どんなことを行うのかを尋ねてみた。ゆうげは腹に染み込むようだった、しかしどう見ても年下の小坊主が目の前に居る手前がっつくわけにもいかない。質問も極めて平静に聞くように努めた。

「夜明け前の起床から始まるエブリディ。果てなく続く寺の清掃。酒も飲めない檀家回り、台所周り。退屈な写経、眠くなる読経、故に独唱。疲れ切った体にのしかかる好き者住職の床相手」
 小坊主はなるべくなるべく僧職が魅力的に見えないように話をした。つまり盛った。

「なに?住職の相手とな?」
 小坊主が言うに住職はことさらあれが好きな生き物なのだという。これには男も驚いた。なにせ自分は女とまぐわいたいと願って生恥をさらすことも辞さずここに来た。だのに小坊主の勤めは斜め上方にカッ飛んでいる。困った。他の事ですら面倒過ぎることが目に見えているのに、それ以前に貞操の危機とな。
 男は小坊主に剃刀を貸してもらえるように頼み、頭髪をそり落とした後は必ず寺を出て自分は托鉢の旅に出るという約束をした。出て行ってもらえると安心した小坊主は喜んで剃刀を貸し水場へ案内する。

「なんだっけあの難しい名前、あぁ法名っつの?それはどんなのがオススメ?」
 男は剃刀を頭にあてながら小坊主に法名について聞いてみたのだが、いろいろ難しそうな音ばかりでよくわからない。しかも下を向いて頭を剃るものだから頭に血がめぐって非常に苦しい。

「やって。お願い。やっちゃって」
 結局嫌がる小坊主に無理やり頼み込んで頭を剃って貰うことにした。目を閉じて身を委ねながら迷想の続きをしてみるが法名など全く浮かぶはずがない。ムズイ。

「あーもう『無瑞』(むずい)でいいや」
 こうして男は無事にセルフ出家したのである。無瑞は小坊主にもう古くなって着ない法衣がないかを尋ねた。しかし余った法衣などないという。ちょうど雑巾にする予定だった十得ならあるというのでそれを貰い受け、約束通り夜もふけた寺を後にした。ちゃんとした法衣でないその姿は一見怪しい茶坊主の出で立ちであったが無瑞はそれでも大満足だった。だってほんの数時間前まで死ぬところだったのだから。

 上々上々。夜風は剃りたての頭に気持ちが良い。おもむろに鞘に入った刀を地面に立てて手から離すと右の方に向かって倒れた。無瑞がそれを拾い上げ、ひょいとそちらを見上げると三日月。良い感じの月がこちらを見ている。
「よし、こちらに行くとしよう」

 刀を持った茶坊主が鼻歌を歌いながら一人夜道を歩いている。
 なんだかすげー物騒な話だ。

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リベルタス

この記事の所要時間: 3 5

 呆けている。大の大人が誰も居ない家で真っ昼間から一人酒を飲んでいる。考えなければいけない事は山ほどあるのだけれどどれも手を付ける気がしない。音楽すら邪魔に思えて窓の外を時折伺いながら日だまりに包まれて只酒を飲むわけである。あははん。

――コンコンコンコ、コンコンココンコン
 と、どこからか聞こえてくる小さな木の打楽器の音。

――コンコンコンコ、コンコンココンコン
 だんだん大きくなってくる音の正体は分かっている。それは壁と天井の繋がりの奥の辺りからこちらに向かってやってくるのだ。

――ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン
 変わる曲調、ついに登場。
 いつものように目の前に現わすその姿。それは紛うことなき神である。気取ることなくほんの少しだけ後光を背負い、登場曲は和風のくせしてどことなく西洋を感じさせる長身。まるでレオナール・フジタが描いたみたいな顔をした女神だ。

 さぁさぁご覧あれ。右手には葡萄酒をなみなみと称えたグラスを掲げ、左手には広げた分厚い本を持ち、楽隊を背中に引き連れて現れる其の女神を。持っている本が聖書ではない事だけは確かだ。
 俺はね、ハイハイ見ますよ、みたいな感じでね。酒を持ったままで恭しくお迎えする。具現化は思い浮かべる人間に依るのだろうか。それとも俺の願望なのだろうか。黒の下着に天女の羽衣を纏っただけのその姿はよくよく考えると全然神らしくない。単に酒を飲むためだけに現れているとしか思えない。だから酒を酌み交わす。女神と酒を酌み交わす。何も言わずに薄っすらと浮かべただけのその笑みが一体何を意味するのかは判らない。慈愛の眼差しなのか、それとも哀れみなのか。けれどいい。それでいい。

――ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン
 さっきまで音楽など煩わしいと思っていたのに、この神楽だけはどうにも心地良い。騒音、雑音、儀音。そんなギザギザな音の粒が今ある俺の雑念を打ち消していく。まぁ一応は神なのだからそれくらいはたやすい筈か。

 俺には生き方を指図する神なんていらない。そこら中に居て全てを見守ってくれる神なんて必要ない。棚に積まれた本の一つ一つにもしも神が宿っているとしたらゾッとしてしまう。時たま現れて酒を酌み交わしてくれるこの位が丁度良い。そして今いるこの神こそが望む神。
 俺は、俺が、俺を、俺に、俺の、俺と、俺のために。なんとか自分らしく生き長らえさせていきたい。俺が俺がガガガ、ガガガ。全ては自分のことばかりの我儘で傲慢。けれど俺の神はそれを認め、それを許容し、何も与えないどころか俺の酒を飲んで帰ってしまう。そんなの最高ではないか。

 神酒は力を持っているのだろう。さっきまで何もやる気が沸かなかったのに、わかった、わかりましたよ、やりゃあいいんでしょう、みたいな感じになってくる。あんたが出てきたんだからやるしか無いとなんだか妙に納得させられてしまう。しかし全然悔しいことなどなく、ありがたいもんだなまったくと思う。俺にとって神とは何かを思うきっかけでさえ居てくれたら良い。どうせ俺の人生なんだ。不幸があった時に神のせいになんかしたくない。其れこそが俺の信仰心。

 散々ここまで書いておいてあれなのだけれど全て嘘だ。嘘というこの言葉でさえ嘘だ。虚構の中にも無限は有る。

――ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン
 わかったよ。ありがとうよ。もう感謝しかねぇ。
 そしていつも一つだけ願ってみる。

 なんか面白いもの書かせろよ。

深夜2時40分

この記事の所要時間: 0 7

もうしばらくこのサイトのデザインは弄らなくて良さそうだなぁ。
デザインばかり弄ってすっかり書く時間がとられてしまった。

メランコリック’80

この記事の所要時間: 1 1

 田舎育ちのため時折田舎が恋しくなるのだけれど曇りの空を見たいと思う。都会で見る曇天は人々の鬱積した心を映しているように見えるが、田舎のそれには恐ろ しい程何もない。厳しい寒さと重い空、なんなら電線を掻き鳴らす風。そこに抗えない何かを思いつつ緩やかな失望を愛でる。子供の時には大嫌いだったあの空 が恋しい。

 旅行において遺跡やら名所に行くというのは当然のことだとは思うのだけれどそればかりを詰め込むのは如何なものかと思う。疲れるし楽しいのか楽しくないのだかよく分からなくなってしまう、つまり楽しくない。

 なんとか銀座などと名乗るくせにもうすっかり寂れきった商店街などをあてもなく歩いたり、どれだけ錆びた缶が出てくるかわからないような自販機で缶コーヒーを買ったりするのは疲れないし楽しく無いわけでもない。じゃあ楽しい。

 景色には二種類あって外を見るための景色と自分の内面を見るための景色があるのかもしれない。景色って言葉は目を閉じると出来事なんて言葉に容易に置き換えられてしまうから目を開いて見るしかないのだろう。

 曇り空だったらきっと最高に違いない場所を見つけた。どこが良いのかなんてうまく言えない。

ジャングルへの帰還 ― ジャングルノート11話【完結】

この記事の所要時間: 3 11

 そういえば本の表紙には作者の名前が無い。あとがきのページをめくるとやっと作者の名前を見つけた。やはり作者はフランス人のようだ。訳者のところには「訳したあなたの名前をここに書いて下さい」と線が引いてある。そこには前の持ち主が書いたのであろう手書きの署名が小さく施してあった。

 目玉が頭蓋骨の中で揺さぶられるような、鈍器で殴られるのに似た衝撃が襲ってきた。目の前の空間がぐらぐらと歪む。何故だ。何故ここに自分のサインが書いてあるんだ。
 作者の名前を見てみると『Jean Loussier』となっている。何が一体どうなっていると言うのだ。何故お前がジャンの名を名乗っているんだ。ジャンは死んでライオンにその姿を変えたのではなかったのか。どうしたらジャンがこの本を書くことができるっていうんだ。お前は一体誰だ。一体何が起きているんだ。読後の満足感などあっという間に消え去ってしまう。

 少し落ち着こう。周りを見回して時計を見ると11時15分を指している。まだ午前中だったのか。待てよ、そういえば自分はいつこの本を読みはじめたのだろうか。
 署名の下には『SN:3/6』とシリアルナンバーらしきものが印字されている。自分はこの本を読むのが初めてでは無いのかも知れない。この記号にはどこか見覚えがあるからだ。見たことのない何処かの街中でこの本を買い求める自分の姿さえ思い浮かんだ。

 何もかもが最悪な気分だ。まるでどこかの誰かに操られているような気がする。仏和辞典を取り出して本のタイトルを調べてみると原書の名前には「ジャングルノート」とあった。なにが「ジャングルのせかい」だ。最初からこれは本ですらなく作者のノートだったということか。
 すっかりただの作り話だとばかり思い込んでいたこの本に、今度は自分が馬鹿にされている。頭はなんとか理屈をつけようと足掻く。何かが狂っているのは確かだ。まるで最後に書かれていた世界の果てのようにこの瞬間こそが流されている気がした。世界が交差して何かがぐにゃぐにゃと形を変えている。猜疑心が煽られている。

 ーー物語というものは物語の世界の中だけでは終わらない。
 最後の章にはたしかこう書かれてあった。

 ーーせいぜい楽しめ、命を大事にな
 黒豹のセリフはこのことを指していたのだろうか。

 ーー物語の延長にはいつも現実があり、現実の先には物語がある。見知らぬ友へ、良き旅を。

 ジャンの墓に戻ったとき、逆流する滝は消えて無くなっていた。道を反対に進んだときにストーリーは変わっていたってことか。最初から読み直そう。もう一度黒豹に会って質問をしなければ。クロコダイルに会って教えを請わなければならない。今から読んだとしたら話の内容が変わってくるのかもしれない。

 ーー全ての可能性の路があることを否定すること無く受け入れるのだ。他人の声というのもそのうちの一つになるだろう

 すべての可能性を否定してはいけない。サイコロを持っていこう。机の脇の引き出しからサイコロを探したのだけれど見つからない。ジャンの墓に埋めたサイコロを今度は掘り出そう。
 ページの隙間から栞がハラハラと落ちた。忘れないように机の上に残っていたチョコレートをズボンのポケットに入れる。ライオンはチョコレートが大好きなはずだ。

 現実と物語の節々が絡み合い、意識したことの無かった世界の揺らぎをはっきりと感じている。全くとんでもないものを読んでしまった。

 『ジャングルへの帰還』
 自分のノートに足跡を残す。

 ゆっくりと本の表紙に目を遣る。シルクハットを被ったクロコダイルが嬉しそうな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

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