八日五月

この記事の所要時間: 0 35

休み明けの朝の感覚は日常に還るという表現に尽きる。
逃げようと思っても抗えないそれに立ち向かうでもなく、流されるでもなく馴染もうとしている自分がいる。
Ordinary Albertという絵本を読んだ。何処にでもいる普通男。アルバートが普通ばかりの日常に危機感を感じて旅に出る話だ。もしかしたらアルバートではなくアルベルトかもしれない。

旅にはいつか終わりが来る。それが旅先で迎えるものなのかどうかは誰にも分からない。
それこそ今自分のいる場所が旅先なのかどうかさえ解らないこともある。

できることは今を生きることだけ。
休み明けの体はそれをわかっているのかもしれない。

タンザニア

この記事の所要時間: 0 59

何飲む?

高校を卒業したばかりの俺にマスターはどの珈琲を飲むのか聞いてきた。豆の種類など分かるはずもなく、正直に聞くとどんな珈琲が飲みたいのか言えと言う。

あまりあっさりしてないものが飲みたい。

目の前に出されたのはタンザニアという豆の珈琲だった。

ミルクも砂糖も入れず飲んでみると透き通った珈琲の苦味と軽い酸味が口の中に広がった。喉を通り過ぎた後も珈琲の香りが消えない。なるほど珈琲って美味いなと思った。

幾度となく通ううちに珈琲屋のマスターは夢を売る商売だと思うようになった。マスターの話はいつも厭世的で何処と無く現実味を持っていなかった。そのくせ世の中なんとかなるということを身を持って体現している楽天家のようなところもあり、そんな彼の話を聞きに来る客も少なくないようだった。

あれから色々あった、月日も流れた。けれどあの初めての珈琲の味は今もハッキリと残っている。

ありがとうマスター。遠い異国の地であなたの死を受け止めている。今でもあなたを思い出す度にあの珈琲の記憶が蘇るよ。

叔父の淹れる珈琲を超えるものはまだ飲んだことが無い。

七日五月

この記事の所要時間: 0 22

昨夜夢の中で誰かと肌を合わせたようだ。

顔も名前も体も何も思い出せない。
そのくせにたしかにそんなことが合ったという記憶だけが抜け殻のように残っている。
まったくなんとも器用な夢を見るものだ。
これで良かったのだと思う自分もいる。

一人寝床から起き出し朝のコーヒーを飲む。
カーテンを開けると少し肌寒くなってきた秋の朝が柔らかい光を庭に届けていた。

蜂蜜秘密

この記事の所要時間: 0 34

さぁそこをまっすぐ通り抜けて
余計なところは絶対に触らないでください
右の壁は敏感で左の壁は不用心です
溢れそうになった所をそおっと指で掬うのが美味しいのです

ほうらそこは駄目だと言ったでしょうに
もとの道に帰って下さい
そうですそこで良いのです
そうですそこがいいのです

ほらほらそこは舐めてはいけませんよ
息を吹きかけてもいけませんよ
ここは酸素が薄いのでとても胸が苦しいのです

全く悪い人ですね
全然言うことを聞かないじゃありませんか
貴方が何処に居るのかわかりますか

そこはわたしの巣なのです
はちみつのことは秘密ですよ

ミノタケ

この記事の所要時間: 4 32

 文具店の中は消しゴムの微かな香りと現像液を拭きとった後のような匂いが混ざっていて、ここがただの本屋ではないことを主張していた。なんで俺はここに居るんだっけ?確か失恋したか何かでとても疲れていて、トボトボ歩いていただけなのにいつの間にやらこの店に吸い込まれてしまったのだ。秋。

 店主は俺を見るとスックと立ち上がり、眼鏡奥のキツネ目から俺を品定めしているようだった。
「折角寄っていらしたのですから、どうぞこちらをご覧ください」
 そう言ってキツネ目がショーケースから取り出したのは沢山のペンだった。瑠璃色の天鵞絨に化粧されたトレイの上に綺麗に並べられている。俺はこいつはきっと気が狂れているに違いないのだと得心する。俺にこんな高そうなペンなど買えるものか。
 黒と赤がマーブルに塗り上げられているものやら、純白の中に乳白色のオーロラ模様が埋め込まれた宝石のようなペン。とにかく全てが高そうだ。
 対して俺はといえばリアリティ・バイツの三人がプリントされた寄れ寄れのTシャツに尻ポケの上の毛皮のパッチが気に入っている裾の切れたジーンズ、鼻緒はもう色褪せた下駄といういでたち。
 そもそも字だってとても下手くそなのだ。高いペンを持つには値しないことなど十分心得ている。段々と怒りがこみ上げてきてキツネ目を睨んだ。俺をからかっているのか。

「そうですねぇ。お客様にはこちらなどお薦めかと。シンニのペンでございます。こちらを使っていただきますといつもと違う文章が書けるのです。どうぞお試し下さい」そう言ってキツネ目は黒と赤のマーブル模様のやつを俺に渡してきた。

『確かに良いペンかもしれませんが僕にはこんな立派なペンはとても似合うとは思えないですがね』とは言えなかった。
 取り敢えず字の汚さだけでも見せて諦めさせようと試し書きをしてみる。

“ファァァァァック!!俺はお前のような人を見下す野郎は本当に大嫌いだ。胃の中にある全ての胆汁をここにブチまけたいほど反吐が出る。俺は今このペン先を貴様の手の甲に突き立てたい衝動を猛烈に耐えているのだ。
わかるかこのクソ野郎が!”

 ペンは勝手に動き出して思っても見なかったような酷いセリフを紙の上に書き出していた。
「そのようにそのペンは怒りの感情を書かせてくれるのです。他には〜」何事もなかったようにキツネ目はペンを渡してくる。興味が出て来た自分は促されるままに書いてはみるのだけれど、次々と渡されるどのペンも普段では浮かばないようなセリフばかりをどんどん勝手に書きだしていくのだった。

「どれになさいますか?」
何本も試し書きをさせられた後、店主は買うのが当たり前のような前提で尋ねてきた。よくわからないがこの大量にあるペンは自分の中の特定の欲望を忠実に書き出せる力を持っているらしい。
「一本どれでも千円になります。但しお買い求めになれるのは一本だけです」Leeのポケットをまさぐるとクシャッとした紙幣の感触があった。こんなペンが千円で買えるというのか。とても良い買い物な気がする。然しこんな物を買って一体どうするというのだ。自分がさんざん裏切ったせいで遂に逃げて行った女への恨み言でも書けば良いのか。それとも有り余る性欲でも書き散らかしていつかの自身への機智として蓄えておけというのか。其れは其れで楽しいかもしれない。悩む。

 答えを出すためにどれほど時間が経ったのだろう。なんだか頭がボーっとしてウヮンウヮンと耳鳴りがしていた。喉が渇いて歯が尖っているような気もする。結局一本の筆記具を買って店を出ると季節は冬になっていた。まったく意味がわからない。とても寒い。冷たい下駄をカランコロンといわせながら急いで家まで帰った。

——–

 あれは何ですかと俺は尋ねた。キツネ目の眼鏡の向こう側に銀色の何かが見えたからだ。
「あちらでしょうか?あちらはただの鉛筆です。あれも千円になります」
 あれは何が出来るのかと更に尋ねてみる。
「取り敢えず何か書けます。貴方が思っていることを」

 そうか。普通の鉛筆か。
「あれを下さい。銀色の鉛筆を」
 ブゥゥゥーン!グゥアゥッ!バッキーーーーーン!
 グレッチでフルスイングされたような音と衝撃がコメカミにやってきた。耳はキーンと高音を奏で、鈍痛ではなく鋭痛が耳がまだ付いていることさえ疑わせた。俺は横っ飛びに吹っ飛んでいた。グレーになった世界にキツネ目の男の声が続く。

 オレヲ誰ダトオモッテヤガル。
 折角お前に本当の欲望を吐き出サセテやろうとしたのに。。
 ペンが何本あったかを数えなかったのか、勘の悪いやつめ。
 お前を地獄の猛火で焼いてやりたくてたまらない。
 忌々しい偽善者ぶりニ反吐が出る。
 お前だって結局血の流れている人間なのだ。
 欲望まみれの低俗な己を判っているだろう。
 俺はお前だったんだよ。折角のチャンスを不意にしやがって。
 頭痛は俺からのプレゼントだ。
 そのままいつまでも楽しむといい。

——–

 早速買ってきた鉛筆で試し書きをしている。あの後に文具屋で起こったのはこんな感じだった。最後の衝撃はまだ残っており、記憶はドンドン無くなっていくような気がしている。

 世の中、金と銀の斧を差し出されたら、間違っても鉄の斧は選ばないのが良いのかもしれない。少なくとも殴られずには済む。

狐祭り

この記事の所要時間: 1 34

 夏祭りの社。

 橙色の提灯の明かりがボンヤリと屋台道を照らしている。ふと見ると狐の面がこっちを見ていた。少し神経質そうな後ろ姿をした男が立ち止まる素振りもなく歩いている。そんな男の後ろをちょっと離れて付いて行く南天柄の白い浴衣の女。狐の面は女の後ろ手にひょいと乗ってこちらを見ている。

 突然女は男の浴衣の袖を引っ張り足を止めさせた。大正眼鏡を掛けたとても気難しそうな男の横顔が見える。どうやら女は林檎飴をねだりたいらしい。渋々という言葉はこんな時のためにあるように男は懐から財布を取り出して林檎飴を買った。

 女は無邪気に林檎飴を受け取るとペロリとそれを舐める。白い浴衣に南天の赤、赤い林檎飴は屋台の明かりで光っている。狐面の赤い隈取が更に鮮やかさを増した気がした。

 男が何やら店番と話している間に女にこちらの視線を気付かれてしまった。びっくりするほど白い綺麗な顔の上で赤い口紅がニッコリと笑う。なんだろうこの違和感は。目を逸らせたいとは思っているくせに逸らすことが出来ない。

 男は話が済んだらしくまた歩き出した。女は林檎飴を持った手でひらひらとこちらに手を振るとぴょんぴょんと跳ねるように男の後をついて行ってしまう。なにかに化かされたように取り残された自分にふうっと意識が戻ってきた。
 夏祭りに浮かぶ白い浴衣。南天、口紅、林檎飴。まだ目は女の後ろ姿を追っている。赤と白のなんだかクラクラする意識の中で一つのことだけがはっきりと浮かんだ。

 ーーあの男は喰われるのだ。
 その言葉の恐ろしさに「ヒェッ」と声が出そうになるのを堪えると遠くを行く狐の面がニコリと笑ったような気がした。

 祭りは盛り上がりを増していく。大きくなるお囃子の音がたった今起きた目の前の不可思議を空の遠くへと掻き消そうとしているようだった。

裏道メルヘン

この記事の所要時間: 1 16

 ふっと入ってしまった横道にはなんだかよく分からない標識があった。

「行き止まりません」
 行き止まりがあるというのならば解るのだけれど「ない」とは一体どういう意味なのか。表通りから見えたビニールのひらひらが垂れ下がる三輪車のせいで、ついつい寄ってしまったこの小道。実際なんだか少しおかしい。

 乾電池の自動販売機。錆びついた家族計画。庭先に見える二層式洗濯機。ホーローの看板。なんだか懐かしい物ばかりが並ぶ。もっと見たくてついつい奥へ吸い込まれてしまう。こんな辺鄙な所にある丸ポストなんて一体全体誰が回収に来るというのか。
 塗装が剥げた井戸のポンプ。緩んだ電線の木が痩せた電信柱。ミリンダ自販機。アナログアンテナ。屋根上にあつらえた干し場。
 覗き窓がくすんだガチャガチャの銀盤には二〇円とだけ書いてある。煮物の香りはするくせに人のいる気配がしない。ラジオの雑音にのった妙な抑揚の男性の声だけがどこからか聞こえてくる。これはいささか良い道を見つけた。まるでセピア色の小道ではないか。

 あっという間に通り抜けると、そこいつも良く知る大通りだった。見上げれば日陰を作るためだけにあるようなビル街。もうそろそろ昼休憩も終わるはずだ。少し遠回りになってしまうので来た道を戻ろうかと振り返ると、果たしてそこには道などなかった。行き止まれないとはそういう意味だったかと合点がいく。

 たまには化かされるのも悪くない。僥倖、僥倖、べりーらっきぃ。

微熱ビール

この記事の所要時間: 0 34

微熱ビールは酒なんかなくたって酔える。
ベッドで一人ダリの絵を真似して見たり、本物のビールも薬になるのではないかと考えたり。

そうだ、どうして曇り空は陰鬱な気分になるのかも考えないといけなかったんだ。だいぶ生きてるのにまだ分からない。早く答えを探さなければまた曇り空はすぐきやがる。

足が熱を持ってビリビリとするのを感じながら悪くない、悪くないと思う。

こんなのを聞きながら微熱を楽しむのもおつなもの。

丁度歌の中でクレイジーって流れたところ。

書いている

この記事の所要時間: 1 21

過去に書いたものを書き直しているとよくぞこんなものを書いたなと思う。誰が書いたの?これ。

自分が書いたものであることは間違いないはずなのだけれど、頰をつねりたくなるような猜疑心が湧く。

冷たくなったテキストが書き直していくうちに温かみを帯びてきて、それを見ているうちに、あぁやはりこれは自分が書いたものだなと思えてくるから不思議だ。

思えばテキスト投稿サイトで色々な人を見た。友達もできた。去っていく人もいた。帰ってきた人もいた。けれどそんなことさえ関係なしに俺は俺で書きたい時に書きたいだけ書いている。いつになったら書いてきたと言えるようになるのだろう。

書くことには孤独な一面がある。なにをどう書こうかなんて余程なことがない限り自分で決めているし、残ったテキストは否が応でも自分のものになってしまう。そう考えると自分の文章には好きも嫌いもない。あるのは自分が書いたという記憶だけ、そんな風に思えてしまう。そのくせ証など何処にもない。でも俺が書いたんだよ。

書くことをいつまで続けられるのかなんて思わない。いつになったらやめるのだろうとは思うくらいだ。似ているようで全然違う。両者には遠い隔たりがある。なんだかんだ言っていつまでも書いていると思うし、こうなってくると皮肉なものだなと苦笑するしかない。いつからこんな風になったのだろう。

人に書けよとは言えないが自分には言える。何か書けよと。

日記を書こうと思っていたのになんだか別のものになってしまった。

深夜1時59分。
残り1分はとても長くて、少し短い。

仏僧物語

この記事の所要時間: 5 41

 男が座っている。
 齢は三十そこそこだろうか。まげの剃る部分、月代には生えかけの毛が目立ち無精髭も甚だしいため浪人風情に違いない。男は町の外れの道端の日陰で片膝を立て、じっと物思いに耽っていた

「誰かとまぐわいてぇ、つまりセクロスしてぇ」
 しかし住むところさえも無い男に残ったものは体のみ。残されたわずかばかりの金ではもう最期の食事を満足な物にすることさえままならなかった

「俺はこのまま死んでいくのか。もはや女とまぐわうことすら許されないのか。手元にもしも最後の三萬円、いや一〇匁でもあれば街で女を探して最後の一興をもって死ぬこともできるのに」
 だが男はそんな金など持っていない。

「しかし腹を切る気にすらなれん。というか腹が減った」
 突然湧き上がる生への欲求は男を地面に縛り付けていた無意味な妄想や怒りや諦めから解き放った。

「なにか食わねば。生き延びてぇ」
 男は少し朦朧とした頭で生き延びるための算段を始めた。無一文でも始められる商売を探そう。そうだジョブチェンジしよう。
 真っ先に思ったのは追い剝ぎだった。追い剝ぎだったら直ぐにでもできる。だが待てよ、そんなことをしたら即刻人相書きが回るに違いない。そして打ち首獄門の刑。マゲも切られた無残な姿で首だけ晒されるなんて恥だ、末代までの恥だ。ってそう言えば俺が末代になるのだったっけ、キングオブ末代、未来に子孫繁栄の予定なし。いや例え子や家族がいようともやっぱり打ち首は嫌だった。どーせ首なんてスッパリ綺麗に切れるはずない。迎える最期は地獄の苦しみに違いないのだ。
 男はそういえば自分は歌がうまかったと思い出した。よし、ここはいっちょ琵琶でも掻き鳴らしニューミュージックでもやってみようか。そしたら女にもモテるかも知れぬしヒモなんていう素敵な響きの職業にランクアップできるかもしれない。それこそ一石二鳥ではないか。しかし無理だった。そもそも琵琶を買う金なんて持っていなかったのである。

「坊さんになろう」
 至極普通の思考回路に戻って男は考えた。人に施しを受けるにしたって坊主の方が乞食よりよほどマシだろう。最悪どこかの寺で小坊主として一から始めればなんとか生き延びることもできるかもしれない。

 善は急げと持っていた刀で髪を切る。もはや武士の誇りなんて何処にも無かった。だってこのままだったらどのみち死んでしまうのだもの。脂ぎった髪を切り落とし、今度は脇差しで頭髪を剃ろうとするのだがなかなか上手くいかない。脇差しは人を切った後のようにすぐに油をまとってしまう。思えば風呂屋にもずっとご無沙汰だった。刀身に纏わり付く短い毛髪。そんなもので剃ろうとするものだからすぐに頭皮を切ってしまう。

「ダメだどうしよう。超痛いしドクドクする。刀って危ないね」
 そんな当たり前のことに今更気づいてしまい、男は髪を剃ることを諦めて近くの寺を探すことにした。

ーー

「住職はおらんか」
 声を上げると一人の弱々しい感じの小坊主が出てきた。男は住職に会いたい旨を伝えるが、住職は檀家の中でも一番遠いお得意様のところに行っており今夜はフィーバー、帰ってこないという。男は小坊主に自分が出家したい旨を話した。
 しかし一介の小坊主がそんな大切なことを一存では決められるはずがない。住職の帰ってくる明日にでもどうぞ。とは言ってみたものの男に帰る場所などないと言われてしまった。

 実は小坊主は内心かなり怯えていた。大きな声がして呼ばれてみればそこには河童。いや頭から血を流した珍妙な髪型の男が刀を携えて立っている。自分はここで殺されてしまうに違いない。あー神様仏様、どうやったら逃げれるのか教えて。即座にテンパってしまった。真っ先に神様なのかと突っ込みたいところだが小坊主にとってはそれほどの異常事態だったのである。

 さて、この河童の目的も判ったことだし命の危険はないようだ。仕方無い。取り敢えず何か食べさせて今日のところはお引き取りいただこう、そんなふうに考えた小坊主は渋々男を寺内にあげることにした。

 小坊主が用意していた夕飯を分けてもらいながら男は小坊主とは日々どんなことを行うのかを尋ねてみた。ゆうげは腹に染み込むようだった、しかしどう見ても年下の小坊主が目の前に居る手前がっつくわけにもいかない。質問も極めて平静に聞くように努めた。

「夜明け前の起床から始まるエブリディ。果てなく続く寺の清掃。酒も飲めない檀家回り、台所周り。退屈な写経、眠くなる読経、故に独唱。疲れ切った体にのしかかる好き者住職の床相手」
 小坊主はなるべくなるべく僧職が魅力的に見えないように話をした。つまり盛った。

「なに?住職の相手とな?」
 小坊主が言うに住職はことさらあれが好きな生き物なのだという。これには男も驚いた。なにせ自分は女とまぐわいたいと願って生恥をさらすことも辞さずここに来た。だのに小坊主の勤めは斜め上方にカッ飛んでいる。困った。他の事ですら面倒過ぎることが目に見えているのに、それ以前に貞操の危機とな。
 男は小坊主に剃刀を貸してもらえるように頼み、頭髪をそり落とした後は必ず寺を出て自分は托鉢の旅に出るという約束をした。出て行ってもらえると安心した小坊主は喜んで剃刀を貸し水場へ案内する。

「なんだっけあの難しい名前、あぁ法名っつの?それはどんなのがオススメ?」
 男は剃刀を頭にあてながら小坊主に法名について聞いてみたのだが、いろいろ難しそうな音ばかりでよくわからない。しかも下を向いて頭を剃るものだから頭に血がめぐって非常に苦しい。

「やって。お願い。やっちゃって」
 結局嫌がる小坊主に無理やり頼み込んで頭を剃って貰うことにした。目を閉じて身を委ねながら迷想の続きをしてみるが法名など全く浮かぶはずがない。ムズイ。

「あーもう『無瑞』(むずい)でいいや」
 こうして男は無事にセルフ出家したのである。無瑞は小坊主にもう古くなって着ない法衣がないかを尋ねた。しかし余った法衣などないという。ちょうど雑巾にする予定だった十得ならあるというのでそれを貰い受け、約束通り夜もふけた寺を後にした。ちゃんとした法衣でないその姿は一見怪しい茶坊主の出で立ちであったが無瑞はそれでも大満足だった。だってほんの数時間前まで死ぬところだったのだから。

 上々上々。夜風は剃りたての頭に気持ちが良い。おもむろに鞘に入った刀を地面に立てて手から離すと右の方に向かって倒れた。無瑞がそれを拾い上げ、ひょいとそちらを見上げると三日月。良い感じの月がこちらを見ている。
「よし、こちらに行くとしよう」

 刀を持った茶坊主が鼻歌を歌いながら一人夜道を歩いている。
 なんだかすげー物騒な話だ。

<< ひとまず了 >>