リベルタス

この記事の所要時間: 3 5

 呆けている。大の大人が誰も居ない家で真っ昼間から一人酒を飲んでいる。考えなければいけない事は山ほどあるのだけれどどれも手を付ける気がしない。音楽すら邪魔に思えて窓の外を時折伺いながら日だまりに包まれて只酒を飲むわけである。あははん。

――コンコンコンコ、コンコンココンコン
 と、どこからか聞こえてくる小さな木の打楽器の音。

――コンコンコンコ、コンコンココンコン
 だんだん大きくなってくる音の正体は分かっている。それは壁と天井の繋がりの奥の辺りからこちらに向かってやってくるのだ。

――ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン
 変わる曲調、ついに登場。
 いつものように目の前に現わすその姿。それは紛うことなき神である。気取ることなくほんの少しだけ後光を背負い、登場曲は和風のくせしてどことなく西洋を感じさせる長身。まるでレオナール・フジタが描いたみたいな顔をした女神だ。

 さぁさぁご覧あれ。右手には葡萄酒をなみなみと称えたグラスを掲げ、左手には広げた分厚い本を持ち、楽隊を背中に引き連れて現れる其の女神を。持っている本が聖書ではない事だけは確かだ。
 俺はね、ハイハイ見ますよ、みたいな感じでね。酒を持ったままで恭しくお迎えする。具現化は思い浮かべる人間に依るのだろうか。それとも俺の願望なのだろうか。黒の下着に天女の羽衣を纏っただけのその姿はよくよく考えると全然神らしくない。単に酒を飲むためだけに現れているとしか思えない。だから酒を酌み交わす。女神と酒を酌み交わす。何も言わずに薄っすらと浮かべただけのその笑みが一体何を意味するのかは判らない。慈愛の眼差しなのか、それとも哀れみなのか。けれどいい。それでいい。

――ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン
 さっきまで音楽など煩わしいと思っていたのに、この神楽だけはどうにも心地良い。騒音、雑音、儀音。そんなギザギザな音の粒が今ある俺の雑念を打ち消していく。まぁ一応は神なのだからそれくらいはたやすい筈か。

 俺には生き方を指図する神なんていらない。そこら中に居て全てを見守ってくれる神なんて必要ない。棚に積まれた本の一つ一つにもしも神が宿っているとしたらゾッとしてしまう。時たま現れて酒を酌み交わしてくれるこの位が丁度良い。そして今いるこの神こそが望む神。
 俺は、俺が、俺を、俺に、俺の、俺と、俺のために。なんとか自分らしく生き長らえさせていきたい。俺が俺がガガガ、ガガガ。全ては自分のことばかりの我儘で傲慢。けれど俺の神はそれを認め、それを許容し、何も与えないどころか俺の酒を飲んで帰ってしまう。そんなの最高ではないか。

 神酒は力を持っているのだろう。さっきまで何もやる気が沸かなかったのに、わかった、わかりましたよ、やりゃあいいんでしょう、みたいな感じになってくる。あんたが出てきたんだからやるしか無いとなんだか妙に納得させられてしまう。しかし全然悔しいことなどなく、ありがたいもんだなまったくと思う。俺にとって神とは何かを思うきっかけでさえ居てくれたら良い。どうせ俺の人生なんだ。不幸があった時に神のせいになんかしたくない。其れこそが俺の信仰心。

 散々ここまで書いておいてあれなのだけれど全て嘘だ。嘘というこの言葉でさえ嘘だ。虚構の中にも無限は有る。

――ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン、ドンガラガッシャン
 わかったよ。ありがとうよ。もう感謝しかねぇ。
 そしていつも一つだけ願ってみる。

 なんか面白いもの書かせろよ。

深夜2時40分

この記事の所要時間: 0 7

もうしばらくこのサイトのデザインは弄らなくて良さそうだなぁ。
デザインばかり弄ってすっかり書く時間がとられてしまった。

メランコリック’80

この記事の所要時間: 1 1

 田舎育ちのため時折田舎が恋しくなるのだけれど曇りの空を見たいと思う。都会で見る曇天は人々の鬱積した心を映しているように見えるが、田舎のそれには恐ろ しい程何もない。厳しい寒さと重い空、なんなら電線を掻き鳴らす風。そこに抗えない何かを思いつつ緩やかな失望を愛でる。子供の時には大嫌いだったあの空 が恋しい。

 旅行において遺跡やら名所に行くというのは当然のことだとは思うのだけれどそればかりを詰め込むのは如何なものかと思う。疲れるし楽しいのか楽しくないのだかよく分からなくなってしまう、つまり楽しくない。

 なんとか銀座などと名乗るくせにもうすっかり寂れきった商店街などをあてもなく歩いたり、どれだけ錆びた缶が出てくるかわからないような自販機で缶コーヒーを買ったりするのは疲れないし楽しく無いわけでもない。じゃあ楽しい。

 景色には二種類あって外を見るための景色と自分の内面を見るための景色があるのかもしれない。景色って言葉は目を閉じると出来事なんて言葉に容易に置き換えられてしまうから目を開いて見るしかないのだろう。

 曇り空だったらきっと最高に違いない場所を見つけた。どこが良いのかなんてうまく言えない。

ジャングルへの帰還 ― ジャングルノート11話【完結】

この記事の所要時間: 3 11

 そういえば本の表紙には作者の名前が無い。あとがきのページをめくるとやっと作者の名前を見つけた。やはり作者はフランス人のようだ。訳者のところには「訳したあなたの名前をここに書いて下さい」と線が引いてある。そこには前の持ち主が書いたのであろう手書きの署名が小さく施してあった。

 目玉が頭蓋骨の中で揺さぶられるような、鈍器で殴られるのに似た衝撃が襲ってきた。目の前の空間がぐらぐらと歪む。何故だ。何故ここに自分のサインが書いてあるんだ。
 作者の名前を見てみると『Jean Loussier』となっている。何が一体どうなっていると言うのだ。何故お前がジャンの名を名乗っているんだ。ジャンは死んでライオンにその姿を変えたのではなかったのか。どうしたらジャンがこの本を書くことができるっていうんだ。お前は一体誰だ。一体何が起きているんだ。読後の満足感などあっという間に消え去ってしまう。

 少し落ち着こう。周りを見回して時計を見ると11時15分を指している。まだ午前中だったのか。待てよ、そういえば自分はいつこの本を読みはじめたのだろうか。
 署名の下には『SN:3/6』とシリアルナンバーらしきものが印字されている。自分はこの本を読むのが初めてでは無いのかも知れない。この記号にはどこか見覚えがあるからだ。見たことのない何処かの街中でこの本を買い求める自分の姿さえ思い浮かんだ。

 何もかもが最悪な気分だ。まるでどこかの誰かに操られているような気がする。仏和辞典を取り出して本のタイトルを調べてみると原書の名前には「ジャングルノート」とあった。なにが「ジャングルのせかい」だ。最初からこれは本ですらなく作者のノートだったということか。
 すっかりただの作り話だとばかり思い込んでいたこの本に、今度は自分が馬鹿にされている。頭はなんとか理屈をつけようと足掻く。何かが狂っているのは確かだ。まるで最後に書かれていた世界の果てのようにこの瞬間こそが流されている気がした。世界が交差して何かがぐにゃぐにゃと形を変えている。猜疑心が煽られている。

 ーー物語というものは物語の世界の中だけでは終わらない。
 最後の章にはたしかこう書かれてあった。

 ーーせいぜい楽しめ、命を大事にな
 黒豹のセリフはこのことを指していたのだろうか。

 ーー物語の延長にはいつも現実があり、現実の先には物語がある。見知らぬ友へ、良き旅を。

 ジャンの墓に戻ったとき、逆流する滝は消えて無くなっていた。道を反対に進んだときにストーリーは変わっていたってことか。最初から読み直そう。もう一度黒豹に会って質問をしなければ。クロコダイルに会って教えを請わなければならない。今から読んだとしたら話の内容が変わってくるのかもしれない。

 ーー全ての可能性の路があることを否定すること無く受け入れるのだ。他人の声というのもそのうちの一つになるだろう

 すべての可能性を否定してはいけない。サイコロを持っていこう。机の脇の引き出しからサイコロを探したのだけれど見つからない。ジャンの墓に埋めたサイコロを今度は掘り出そう。
 ページの隙間から栞がハラハラと落ちた。忘れないように机の上に残っていたチョコレートをズボンのポケットに入れる。ライオンはチョコレートが大好きなはずだ。

 現実と物語の節々が絡み合い、意識したことの無かった世界の揺らぎをはっきりと感じている。全くとんでもないものを読んでしまった。

 『ジャングルへの帰還』
 自分のノートに足跡を残す。

 ゆっくりと本の表紙に目を遣る。シルクハットを被ったクロコダイルが嬉しそうな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

 << 了 >>

読了 ― ジャングルノート10話

この記事の所要時間: 6 51

八章:この世の果て

 遂に長かったこの手記にも旅の終わりを記す時がきたようだ。私は今、海の孤島に浮かぶ病院のベッドで此れを書いている。こんなとるに足らない今の私の状況など書くことは関係ない気もするが物語というものは物語の世界の中だけでは決して終わるものではない。物語の延長には現実があり現実の先にはいつも物語が転がっている。

 あの時、私達はジャングルの中を大きな円を描くように進む予定だったのをやめ、出発地点へそのまま折り返すルートを選んだ。見ることのできない景色も沢山あったことだろう。しかし私達は間違ってはいなかった。なぜならば私はこれを書くことができたのだから。

 ライオンに出会った後、私の世界は一変した。ジャングルに来て以来ずっと恐怖に怯えていた眼はこの世の全ての色に正しく向けられるようになった。黒豹の言っていたことを理解した。クロコダイルは真理を教えてくれていた。それでも彼らの意思を汲み取れず悩み苦しんでいた自分を最後に救ったものは肯定だった。世界はずっと前から眩く光りながら私に向かってその手を差し伸べてくれていたのだ。

 帰路を歩み始めてから二週間程経った頃、私達はある異変に気がついていた。進んでも進んでも一向に景色が変わらないのだ。キャンプにふさわしい野営場所を決める際、以前に来たような錯覚を覚えていた。計器の故障も疑った。しかしなにもかもが恐ろしく正確に動いている。昼と夜は規則正しく明け暮れ、ただ無闇やたらに時だけが過ぎていく。そして私達は自ら付けた目印によって、同じ場所をグルグルとまわっていることを確信するに至った。

 私達は目につく一番大きな木に物見台を作ることにした。下手に動くのは危険と判断した訳だ。二日もかけて作り上げたそれは十二分に立派なものだった。
 一人一人交代でそこに登り、何か目印になるものを探す。私達は目を疑った。地球は丸いなどというのは真っ赤な嘘だったからだ。そこから見える360度の地平線にはぽっかりと大きな窪みが口を広げている。世界は大きく歪んでいた。そしてそれは私達の場所を中心にゆっくりと右から左へうねるように動いている。コンパスでさえもそのうねりに惑わされていた。私達は目先の目標に向かって真っ直ぐ向かってはならなかったのだ。ただ帰るべき場所へと向かわない限り決してここを抜け出すことなどできる筈がなかった。そう、うねりもコンパスも無視して。

 私達は初めて全員で意見を出し合った。この場から出るために何ができるのか。全員の思いはただ一つ。生きてここを抜け出すことだ。そこには階級も学歴もなかった。私達はうねる大地に規則性を見つける必要があった。幸いなことにまだ充分な水も食料もある。私達は交代で物見台に登り規則性を探そうとした。だが、残念ながらそれを見つけ出す為には膨大な時間がかかるように思われた。
 そんな最中に殴り合いの喧嘩が起きた。探検を始めたばかりの頃ならばともかく、死線を共にしてきた私達にとって其れは久々の大事件だった。何の事はない。原因はギャンブルでの争いだという。

 フランスのパブに行くものなら誰でも知っている421というゲームが有る。ダイスを3つ振り、出た目の役を競うゲームだ。名前の通り421が出ると最高役になるそのゲームでは役を競うために1がキーの数字になっている。それが何回ダイスを振っても全く出ないというのだ。私達はイカサマかどうかを言い争う二人を羽交い締めにして縛り上げた。なんという温厚な解決策だったろう。ギャンブラーの端くれだった私にとって二人の喧嘩はどこか懐かしく、こんな時であるのに笑ってしまう余裕さえあった。

「ちょっとまってくれ!」
 久しぶりの殴り合いに賑わう仲間達を制したのは他ならぬ私だった。おかしい、絶対におかしい。相手に振らせるダイスをすり替えることは難しい。だからもしもイカサマをするとしたら自分が振るためのダイスを隠し持つのが普通だ。そのダイスが1を出せないなんてわざと負けたがってるようなものではないか。私は自分のテントに駆け戻りダイスを探した。自分のダイスを握りしめ、テントから飛び出して仲間達の前に立つ。

 二十を超える眼の前で自分のダイスを振った。
「3・3・3」「4・2・5」「5・4・3」
 私のダイスでもやはり1の目は出なかった。その場に居ない昆虫学者を仲間が呼びに行く。昆虫学者がやってきた後も私の3つのダイスは決して1の目を出すことはなかった。学者の観察力は流石としか言いようがない。彼は高らかにこう宣言したのだ。この場所で振るうダイスの1と6の目は常に同じ方向を指していると。

 丸々一日を費やし、何千、何万とダイスを振った私達はダイスが常にコンパスとも異なる規則正しいある方向を指していることを突き止めた。日が明けるのを待って、常に目が6を示す方向に向かって歩き出す。理屈なんてどうでも良かった。ただそこにある事実と微かな希望だけが私達を突き動かしていた。コンパスが正しく機能する場所にさえ辿り着ければ良い。そして物見台を出発してから一週間後、遂に私達は見知った場所へとたどり着いたのだ。

 それはジャンの墓標だった。ジャンの墓標は私の文字を刻んだまま、何事もなかったかのように佇んでいる。不思議なことにジャンの命を奪った逆流する滝はどこにも見当たらなかった。私はもう必要の無くなった私のダイスを墓標の下に埋めることにした。

 それからの私達はもう迷うことはなかった。コンパスは正しく未来を指し、私たちは思い出を辿るように来た道を歩む。しかし私達の見知ったあの不思議な世界は面影は残っているものの忽然と姿を変えてしまっていた。そこには葉巻をふかすクロコダイルも、流暢なフランス語を操る黒豹も居なかった。蝶の墓場に至っては花が咲き乱れる只の樹木だった。私達は一様に違和感を感じながら、それでも出発地点のジャングルの外の村まで無事に辿り着くことができた。

 その後祖国に帰った私は小さな貿易会社に就職し会計士の仕事を続けた。ギャンブルに対する興味は不思議と消えていた。そして世界はあの激しい戦争に突入する。ジャングルを出てから良いことも悪いことも全て自分の意志に従うことに決めていた私は戦争に乗じて最後のギャンブルをした。そして人生を賭けた勝負に勝った私は大金を得ることになり、戦争が終わるのを待って祖国を捨てる。贅沢をせずに暮らすには充分だった。それから何もない平和な数十年の歳月は流れ、年老いた私は人生の最期を迎えようとしている。

 今になって思えば、あの最後に迷った場所は世界の果てだったかもしれない。それとも始まりの場所だろうか。終わりと始まりはとても良く似ている。私は天に召される前にあの場所の上を通ることができるのだろうか。今はただ静かに答えを待つのみだ。

 私のジャングルのせかいはここで終わる。やっと書き上げることが出来た。これが最初で最後の手記になるだろう。ここまで読んでくれた君に会うことはないだろうが感謝する。どうか最後にこの言葉を受け取って欲しい。

 正しい答えはすぐ側にあっても目には見えない。真などと呼ばれるものはその時点で判断される一つの形でしか無い。
 君よ、決して惑わされるな。君にとっての正しい答えは君にしかわからないものなのだ。

 見知らぬ友へ、良き旅を。

 ーー ジャングルのせかい 完 ーー

 やっと読み終えることができた。体にはいつもの読後のような気怠さと爽やかな満足感のようなが残っている。面白かった。しかしそれとは別になんだか妙に引っかかるところもある。

『黒豹の歓迎』
『ジャングルの決意』
『最後の煙草』
『死の鱗粉』
『未来への道』
『マルセイユ』
『追想の夜』

 本の脇に開かれた自分のノートには感じたままに綴られた言葉が章ごとに並んでいる。この最後の章はなににしようか。もうこの作者はきっとこの世を去っているだろう。その気持ちも込めて「この世の果て」としたのだろうか。随分メッセージ性の高い本だった。語りかけてくる内容も多かった。そのせいなのか果てという言葉に少し違和感を覚えている。どんな言葉がいいのだろう。

 少しのどが渇いてしまった。水でも飲もう。

追想の夜 ― ジャングルノート9話

この記事の所要時間: 3 6

七章:知られざる夜会

 長くなった私の手記もそろそろ終わりを迎えようとしている。しかし私は書こうと決めたことのうちの一つをまだ書いていなかった。忘れてしまう前にここに書き留めておこうと思う。

 ジャングルの中では誰もがそれぞれのルールで生きている。それは縄張りであったり活動する時間帯であったり。それが種によって異なるのは至極当然なことだと思う。しかし其れらの全てが無視される夜がジャングルにはある。私達は其れをジャングルの夜会と呼んだ。
 夜会が行われるのは新月の夜だ。その日は朝からジャングルは静寂に包まれ、日中に生き物を目にすることは難しい。アリの一匹も見かけず、虫の羽音一つ聞こえないジャングルは一種異様で、その日だけは私達も行軍しない事に決めていた。

 私達にも一応の役目はあった。そのときだけはキャンプの周りに特別な香を焚くのだ。ジャングルに入る手前の村でこれを焚かないと死んでしまうと聞き、相当な量の堅いそれを分けて貰っていた。初めは半信半疑だったものの実際にあれを見た後には香がいつ無くなってしまわないかと心配する程だった。

 なかなか来ないと思っているジャングルの夜更けは日暮れとともにあっという間にやってくる。辺りが暗闇に包まれ、鳥の鳴き声が聞こえてくると私達は夜会の始まりを知った。慌てて香を焚き、松明をすべて消して自身のテントに潜む。樹の葉が揺らしながらジャングルの生きとし生けるもの全てが誘い合わせたようにその姿を現わすのを待つのだ。香を焚いた私達のキャンプには彼等は決して入って来ないだろう。もしも無かったとしたら私達は祭りを彩る生贄となっていたに違いない。

 圧倒的な怒号にも似た声が辺りを包む。大型動物の足音がキャンプのすぐ側をかすめて行く。私はテントの隙間からこっそり外を伺い見る事があった。どうしても衝動を抑えられなかったのだ。夜のジャングル全体がオレンジ色に照らし出されている。あれは何かが燃えているのだろうか。しかし焦げた匂いはなにもせず、炎によるものである筈が無かった。

 得体の知れない光を背に動物達は踊り狂う。四足動物達は後ろ足で立ち上がり獣道をうねり歩く。そこには捕食者も被捕食者も無い。いつもはおとなしいゴリラでさえ咆哮を上げて胸を打ち鳴らしていた。クロコダイルは狂ったように尾で水を叩いているようだった。木の上を何匹もの動物達が飛び交っている。虫の羽音もガリガリと何かを削るような甲高い音で響き渡った。極楽鳥の声は更に彼等を狂わせるように艶を帯びた嬌声を奏でている。

 その日だけはジャングルは一体化した生き物のようだった。人間は息を潜めて夜会の終わりを待つしか無い。狂乱の宴はなんだかとても楽しそうで私は外に飛び出して彼等と共に過ごしたい衝動に駆られていた。私は思う。私が見た光の正体はきっと命が燃えている光だったに違いない。
 思い出しただけでも胸が熱くなる。できる事ならば死ぬ前にもう一度だけあの夜会を見てみたい。夜会だけではない。今も時折ジャングルのあの日々を思い出してはあの場所へと帰りたいと考えている。あんなにも沢山の恐怖を覚えたはずのあのジャングルに。
 これを読んでいる君が興味を持てるのであれば一度はジャングルに行ってみることをお勧めする。それは君の人生観を全て打ち壊し新たな価値観を与えてくれるだろう。人生はカーニバルだ。それに気が付いてしまうのはギャンブルかも知れないが、知りたいと思うのならば早い方がいい。その為にだったら命を賭けることさえも十分に見合うものではないか。
 
 命は良く燃える。それも信じられない程に。
 

マルセイユ ― ジャングルノート8話

この記事の所要時間: 4 48

六章:迷い込むライオン

 外の歓声をよそに、私は笑いながら涙を流していた。何のための涙なのかは解らない。祖国へ早く帰れる喜びなど無かった。全てはまやかしだということは判っている。早く帰れると言われたところで祖国へすぐにつく訳ではない。生きて辿り着ける保証もない。たとえ帰れたとしてもそこで何をして生きていくというのか。そもそも私は一体ここで何をしていたのだろう。このジャングルの旅は私に一体何を与えてくれたというのだろうか。答えはまだ見つかってない。私は諦めることにすら疲れてしまっていた。結局のところどうにもならないことをそれなりにやり過ごしているだけなのだ。
 そんな思いを巡らせる私のテントにガサゴソとする物音があった。とっさに涙を拭い、未知の来訪者を待つ。果たして入ってきたのは一頭の雄ライオンだった。

 私は息を呑んだ。何故こんな所にライオンが居る。此処はジャングルのど真ん中なのだ。一体どこから迷い込んで来たというのか。ライオンは見るからに弱り痩せこけていた。其れでもゆうに私の二倍程もあるそれが直ぐ目前に居る。こいつはこれから私を喰らおうというのか。私はライオンの目から目を逸らさぬようにゆっくりとベッドの下のバッグへと手を伸ばした。小さなデリンジャー。私はそれを脇腹に構えると彼に話しかけた。

「フェアに行こう」
 私は殺されるかもしれない、しかしこいつも死ぬかもしれない。ライオンはグルグルと喉を鳴らしながらじっとこちらを見ている。黒豹やクロコダイルのように流暢なフランス語を話せやしないのだろうか。汗がじっとりと背中に吹き出し、すぐに冷たくなってシャツを張り付かせる。そんな私を気にすることなくライオンはテントの入口に寝そべりだしてしまった。これで私はここから駆け出して逃げることが出来なくなってしまった。

 ほら見ろ、頭の中で嘲笑が聞こえる。つかの間の喜びなどいつも簡単に覆されてしまう。その度に慄き、運命を呪い、立ち向かい、乗り越えては必要以上に安堵する。俺はそんな単純な生きものなのだ。もううんざりだ。こいつに殺される運命ならば其れでもいい。
 一向にテントを出て行く気配のないライオンを見ながら私は本気でそう思い始めていた。デリンジャーをベッド脇の簡易椅子の上に置く。勝手にしろ。そうだ、チョコレートがあったはずだ。乱暴にリュックの外ポケットからチョコレートを取り出すと半分に割ってライオンの方に放り投げた。自分でも其れを食べてみせる。ライオンは疑い深くチョコレートを舐めるとゆっくりと口に入れて咀嚼した。こいつはジャングルで初めてチョコレートを食べたライオンになるのかもしれない。そんなくだらない事を考えてニヤつきながらもまだ死への恐怖はしっかりと残っている。時折見える牙の隙間からくぐもった咀嚼音が出る度に背中に凍りつくような痺れが走るのを私は食い止めることが出来なかった。私に出来る事などもう何も無い。ただこのライオンが出ていくのを待つか、襲ってきたらせいぜいの抵抗をするだけだ。

「もう何をしたらいいのか自分でも判らないのだ」自然と口から言葉が出ていた。
「私は人生を踏み外してしまった。迷い路に入り込んでしまった。私にもまだ何処かに違う生き方が有るのかもしれないと思った。けれどこんな辺境の地に来てさえも私は私でしかない。結局何も変えることなんてできやしなかったのだ。一体お前はどこから来た。サバンナがこの近くにあるのか。それとも何処か住みやすい場所を探していたのか」

 ライオンは少し悲しげな顔をしているように見えた。そうだ、この顔には見覚えがある気がする。
「ジャン、お前はジャンなのか」
 ふと頭に浮かんで口に出してみた問いかけにもそいつはやはり無言だった。彼はスクっと立ち上がると、くるりと後ろを向いてテントから出て行こうとする。それはあまりにもあっけなかった。私はまた生き延びてしまうのだろうか。外のテントからはまだ笑い声が聞こえて来る。突然身体がガクガクと震え始めた。我慢していた恐怖が後から押し寄せてきていた。震えを抑えろ。私が今するべきことは震えることなんかじゃない。

 アロン ゼン-ファン ドゥ ラ パトゥリー ウ! ル・ジュール ドゥ グロワール エ タ-リヴェ!ーー祖国の子どもたちよ!栄光の日はきたれり!

 

 私は震える声を怒鳴り声に変えて歌い始めた。一瞬の静寂の後、外からは仲間たちの歓声が上がった。テントの外から次々と歌声が増していく。ライオンよ。私も生きる。お前も生きろ。そうだ、私は自分は運良く死を免れているだけなのではないかと薄々気が付いていた。ただそれを確信する事ができないでいたのだ。しかし確信した。私は何者かによって生かされている。生きている理由など其れで充分ではないか。私はここに来て初めて自分が間違いなく生きて帰れるだろうと思った。祖国へ帰ることが現実に起こると信じられた途端、それは紛れもない喜びへと変わっていった。そうだ私は守られている。その確信は歌えば歌う程大きくなっていき、強く私を鼓舞していく。震える声はもうない。先程までとは違う涙が頬をつたう。私は更に声を絞り出していた。

 プウープ、ヴーブ ブリーズ ブォス-フェ! イ-ヴォス アウズィーン パトゥリ!
ーー民衆は縛られた鎖を引きちぎる。お前はお前の国を持っている!

 あのライオンがジャンである筈など無いだろう。けれど私はあのライオンが何処か安住の地にたどり着くことをだけを願い声を上げる。誰にも気づかれずここを逃げろ。

 暗いジャングルの空に祖国の歌が溶け込んでいく。

<目次>

未来への道 ― ジャングルノート7話

この記事の所要時間: 2 56
五章:逆流する滝

 私は現実とは何かということを真剣に疑問に思い始めていた。ジャングルに入ってのこの数ヶ月間、実に多くの不思議な光景と仲間の死に立ち会って来た。だがそれを現実として受け止めきれていないのだ。例えばもしもこれが本の中の世界だとしたらどうだろう。私は喜んでそれを受け入れるに違いない。たとえそれが私が存在しないという事を意味していたとしても。細く色白だったはずの体が今では褐色に焼けてうっすら筋肉さえ浮かんでいる。そのことだけが自分は生き延びたのだという実感を与えてくれた。

 先の方から水の音が聞こえて来る。おそらく滝でもあるのだろう。誰もが同様に歩を早めた。水源に近づくにつれ辺りはどんどん涼しくなっていく。果たして目の前に現れたのは凄まじい勢いで逆噴する巨大な水の柱だった。それは横幅が10メートル、厚さが2メートル程もあり、冷たい水が天まで噴き上がっている。私達は水の中に手を突っ込むと久々の新鮮な水を味わい顔や頭を洗った。給水タンクへとこの先の備えもした。
 
 肘まで手を入れたところで背中に妙な予感が走った私は慌てて腕を引き抜いた。水流に体を持っていかれそうになったのだ。ふと右を見ると下着一枚になった仲間が水浴びをしようと足を踏み入れようとしているところだった。
「やめろ、とまれ!!」
 私の背後から隊長の怒号が聞こえた。隊長の方を振り返る隊員たち。しかし時すでに遅く水浴びをしようとしていた隊員は水の中へと吸い込まれていった。数人がその場所に駆け寄ったが彼の姿はもう見えない。私は彼が水柱の反対側に飛び出ているのではないかと裏側へと走ったがそこにも彼の姿はなかった。
 
 すぐに隊長の号令で整列と人数確認が行われる。幸いなことに彼以外は全員無事だった。私が感じたあの違和感を隊長も感じたのだという。しかしそれに気付くのが遅すぎた、彼を制止するのが間に合わず申し訳ないという謝罪が隊長からあった。昆虫学者が事の起こりを説明する。誰もが久しぶりの水を見て浮かれていたのだろう。今の今まで誰もが一つの奇妙な事実を見過ごしていた。
 
 ”噴き上がった水がどこにも落ちてこない”
 
 昆虫学者はこんなことは絶対にあり得ないと言いながらも力説した。これはおそらく滝のようなものであると。重力に逆らい水が下から上に落ちているのだという。私達は一様にゾッとした。それではさっきまでの私達は滝の上から頭や手を突っ込んでいたというのか。私が感じた嫌な予感は水流に吸い込まれる感覚ではなく、落ちるかもしれないという感覚そのものだったのだ。
 
 一晩キャンプを張って待ってみたものの彼が落ちてくることはなかった。私達は滝の脇に脱ぎ捨てられた彼の衣類を埋めて墓標を立てた。ジャンという名前以外、ファミリーネームさえも知る者はなかった。仕方なく私の考えた墓碑銘がそこには彫られることになる。
 
『ジャン、未落の滝に眠る』
 私は祖国よりもなによりも現実に一刻も早く帰りたかった。声に出してしまったら叫び出しそうだった。あと少しで迂回して戻る地点というところまではもう来ているはずだ。
 

 翌日の夜、迂回ルートを更に変えて予定よりも早くジャングルを抜け出すことを目指す通達がなされると、外のテントからは地響きのような歓声が湧き起こった。ルームメイトだったジャンの居なくなったテントの中、私は笑い出していた。

この世界は人の死こそが未来を作っていくのだ。

<目次>

チョコレートの栞 ― ジャングルノート6話

この記事の所要時間: 1 44

 机の上に造作なく置かれていたチョコレートの箱を千切り、栞の代わりに本に挟む。

 
 やっと半分程読み終えた。もうとっくに読み終わると思っていたのになかなか読み進まない。この本に書かれていることは全くの作り話なのだろうか。それにしては妙な臨場感があり時折カラフルな絵が頭の中に飛び込んでくる。作者の心情は乾き過ぎていて良く分からない。現実の世界の事ではないと頭では分かっているが現実と虚構が捻れて不思議な感じがする。フワフワしている。実は全て本当の話なのではないかとすら思い始めている。
 
 そもそも本というのはそんなものかも知れない。紙の中に閉ざされた世界。こちら側から本の世界を覗くことはできる。しかしあちら側からはどうなのだろう。この世界こそが本の中である可能性は無いのだろうか。いや、そんな考え方はおかしい。そもそも明らかに虚構とわかるこの本を読んでどうしてそんな事まで考えなくてはいけないのか。こんなのどこにでも転がっている子供向けの絵本みたいな話じゃないか。
 
 妙に頭が疲れてしまい、タバコを吸うことにする。吐き出された煙の残煙が頭の奥にニコチンを流し込む。そうだ、この話は緩やかに頭の中に流れ込んでくるのだ。
 もしかしたらこの本には幾つかの本当の事が紛れ込ませてあるのだろうか。そして其れこそがこんな馬鹿げた事を考えさせているのかも知れない。まるで朝顔の種に含まれる毒のようにそれがゆっくりと効いているのだとしたら、なんだか少しだけ説明がつく気がする。だとしたら、それは一体なんなのだろう。ギャンブルで人生を踏み外した男、会計事務所に勤めていた男。それくらい事実が紛れ込ませてあるくらいでこんな風になるだろうか?
 
 ーーこの作者は過去に本当に人を殺したいと思った事があるのかも知れない。 
 そんなことをふと考えた。部屋に燻るタバコの煙の奥で表紙に描かれたクロコダイルは下卑た笑みをこちらにに浮かべているように見える。
 
 本に戻るとしよう。
 

死の鱗粉 ― ジャングルノート5話

この記事の所要時間: 3 11
 
四章:蝶の墓場
 
 ワニと出会ってからの私は祖国に帰ってからのことを考えるようになっていた。ここに来る前の私は雇われで会計事務所に勤め、ある程度の給料を貰っていたのだ。普通に生活する分には困ることなど無かった筈だ。あのバーの裏に隠された二階の一室で夜な夜なポーカーなどに現を抜かすことさえ無かったならば。
 
 私はギャンブルの中毒性を味わい尽くしていた。財布が空になった帰り路のあの虚無感と絶望。そこにすら陶酔を覚えた。数少ない勝利の美酒は粘度を持って絡みつき、勝利の記憶はいつまでも残るように私の脳を侵食していった。あと何回勝てば全ての負けを取り返せるのか、などという無駄な計算も放棄させた。借金の重みだけが現実を見ようとしない私の首をゆっくりと、それでいて確実に絞め続けていったのだ。本当にそんな感じだった。そして雁字搦めになった私は遂に仕事まで失う羽目になる。
 
 ジャングルの旅には良い時と悪い時があった。命の危険がない時は良い時、死ぬかもしれない時が悪い時。其れは本当にシンプルで私はいつしかこの旅を自分の人生に重ねるようになっていた。
 あれからの私達は更に二人の仲間を失っていた。前日まで元気だったはずの彼らは原因不明の高熱によって呆気なく旅立っていった。昆虫学者は蚊の所為だと主張したが蚊に刺されていない者など此処にはそもそもいなかったし、自分の死がそんなに近くにあるなんてことをどうやれば信じられるというのだろう。二人は単に運が悪かったのだ。自分は大丈夫だ。正気を保つためにはそう信じるしか無かった。
 
 その日、私達が辿り着いたそこも安全な場所の筈だった。湿地帯を抜け、剥き出しになった土の上に色鮮やかな葉を持つ木々が数十本群生している。
「蝶の…墓場だ」
 昆虫学者は呻くように声をあげた。ジャングルに入る直前に村で聞いた嘘のような話は、こんな奥地に実在していた。鮮やかな葉に見えたものは密集した蝶達の羽だったのだ。何億もの蝶が蠢き、樹木の様相を作り出している。私は鱗粉を吸い込まぬよう顔にタオルを巻きつけた。
 
 自然は時に信じられない程に残酷だ。私達はこの数ヶ月で充分それを学んでいた。だから少し感覚が麻痺していたのかもしれない。こんなにも多くの蝶が生きていけるほどの花が何処にあるのだろうか。ジャングルはそんな疑問に対する答えを私達の頭が思いつくのを待たずに見せつけてきた。花の蜜ではなく蝶を吸う蝶。よく見ると木の幹に見えていたものは化石化した蝶の死骸だった。密集する蝶は弱肉強食の世界そのままだったのだ。
 
 昆虫学者は更なる調査のため、風下にある一本のそれを選ぶと慎重に火を点けた。羽を燃やしながら命尽きるまで空に舞おうとするもの、そのままま最期迄木にしがみつき絶命していくもの。其れはまさに命を燃やす儚い何かだった。他の木の蝶達は微動だにしない。彼等は火の粉すらかかるはずが無いと信じているのだろうか。其れは自分の死の可能性を考えることを拒否する今の私達の姿のようにも見えた。
 
 全ての葉を失った蝶の枯木からはまるで本当の木のような枝が現れた。空に向かって伸びる死骸の枝は不気味を飛び越してただの不思議な何かだ。私達は完全に火が消えるまでいつ迄もそれを見上げ、昆虫学者が幹の一部を小瓶に入れるのを待ってそこを後にした。
 
 其の夜、私を含めた数人は高熱を出した。おそらく鱗粉を吸い過ぎたのだろう。あんなに美しかったあの場所はちっとも安全な場所では無かったのだ。しかし高熱に冒されている間も私はこの熱で自分が死ぬなどとは不思議と思わなかった。
 
 熱にうなされる私の脳裏には火に包まれてなお命の限り飛ぼうとする蝶の姿がいつまでもいつまでも焼き付いていた。