最後の煙草 ― ジャングルノート4話

この記事の所要時間: 4 48
第三章:タバコを吸うワニ
 
 私は人生の師と言うものに出会ったことが無かった。出会っていたならば借金で首が回らなくなり、命を賭けてまでジャングルクルーズに参加するなどという馬鹿げたことも無かったことだろう。しかし皮肉なことに私は人生の師と呼べるものにジャングルで出会うことになる。それは人間ですら無かったのだけれど。
 
 ジャングルに入って一ヶ月程がたった。時を知るために持っているものは時計と手帳のカレンダーだけ。すると今日が本当に今日なのかどうかなんてわからなくなる。祖国に帰ったとき、時は再び正確に動き始めてくれるのだろうか。隊の奴らも少し打ち解けてきたのか段々と本性を表し始めた。我儘、傲慢、怠惰、狡猾。所々に自分と同じ匂いを感じることが出来る。私は相変わらず二人の隊員を死に追いやった者を探していたが手がかりなど有る筈も無く、誰もが怪しげに見えるだけだった。既にそれは憎しみというより只の執着だったのかもしれない。それこそが私の生きることへの希望だった。ジャングルはそれ程酷かったのだ。私達はアマゾン川の支流の一つに沿って更に奥地へと向かっており、底なし沼のようになっているぬかるみを避けながら随分の距離を歩いていたように思う。
 
 その光景はまるで自分が不思議の国のアリスに落っこちてしまったかのように突然現れた。
 川辺の淀みに流れ着いた一本の丸太の上。葉巻をもくもくと吹かすクロコダイルがそこにいた。ご丁寧にシルクハットまで被っている。私達は熱病にでも冒されていたのかもしれない。しかし全員が同じ光景に息を呑んでいたし、あながち夢でもないはずだ。黒豹との出会いがあったにしてもやはり信じられない光景だった。
 
「やぁやぁこんにちは。こんな所までようこそ」
彼は目でも悪いのだろうか。片眼鏡を掛けたそれは黒豹の時と同じように流暢なフランス語で私たちに語りかけてきた。
「今、私は会話というものにとても飢えているのだよ。不躾だが一度にいかせてもらおう」そう言うと今度は頭の中に直接ワニの声が聞こえてくる。頭の中を直接触られているようなグニャグニャとした声だった。
 

「仲間を見てごらん。お前が求めていた答えはそこにある筈だ。ただし焦ってはいけないよ。殺すのだけが答えではないのだ」

 私は戸惑い、ワニの言葉を必死に否定しようとしたが周りの隊員達が次々と先に声を上げ始めたのでなんとかとどまることができた。どうやらワニはそれぞれの隊員達に対して別のことを話しかけているようなのだ。私は喉に力を入れて声を上げるのを堪え、沈黙を守ることにした。
 
「よろしい。君は少しは頭が働くようだ」ワニは言った。
「私との会話に集中しているふりをしてよく周りを見てごらん」
 隊員たちの中には、笑いだすもの、泣き出すもの、耳を塞ぎだすもの、もう帰りたいと声に出すものも居る。
 
「仕方がなかったのだ、本当に仕方がなかったのだ」
 声のする方向に目をやると隊長の横で副隊長が必死の形相でワニに弁解をしている。
 私は直ぐに悟り、ワニから顔をそらさぬようにして隊長の顔を伺った。彼は憮然とした態度で副隊長とワニのやり取りを見守っているようだ。目には複雑な色を湛えているようにも見えた。
 
「まぁやめとけ」ワニは私の目を自身に戻させるとこう続けた。
「復讐などと言うものは陳腐なものだ。それによって得をすることなど何一つとして無い。自己の肯定にばかり固執することほど無駄なものは無いのだ。何故ならばそれが自分にとっての最大の幸福とはなりえないからだ。ーーわかるかね」
 

 私が求めていた言葉には足りなかったが、それは当に真理だった。思えばジャングルに入るずっと前から自分を肯定するために、俺は一体どれだけの徒労をしてきたというのだろう。隊員達の肉塊を見たあの日からずっとデリンジャーを犯人の口に突っ込みたいと思ってきた。怯える目と懺悔の言葉を吐かせたかった。それが陳腐な自分の正義を肯定するたった一つの方法だと信じた。だがその先には何もない。引き金を引くのか、引かずに報復を受けるのか、どのみちその二通りしか答えはないのだ。

それにしても何だかあっけない顛末だった。犯人としては当たり前すぎる人選であったし、命を賭けるには物足らないとしか思えない。体は無力な喪失感で包まれていた。

 
「時にーー」
 頭のなかに少し温かみのある声が響く。
 
「正しい答えはすぐ側にあるにも関わらず見えない時がある。愚かさは時に自己を肯定するものだったり、真に見えるものだけを追い求めようとする。ところが真などというものはその時点で判断される一つの形でしか無い。様々な答えは常に別のベクトルにあるために、時が経つことによって真だったものが嘘になってしまうことも多いのだ」
 
 私は神々しくさえ思えてきたその生き物に、それではどうすればよいのか、自分には抗えない本能としか思えないと尋ねてみた。
 
「その本能に従いつつ、流されないようにすればよい。此の流木のように澱に留まることもあるだろう、流れる途中で降りて岸に向かうのも良い。全てに可能性の路があることを否定せずに受け入れるのだ。他人の声というのもそのうちの一つだ」
 
 その声を最後にワニの声は聞こえなくなった。彼のシルクハットも、片眼鏡も、葉巻の煙さえも消えていた。他の隊員たちはまだ、何があったのか受け容れられず混乱しているようだ。私は周りも憚らず、大事に残していたタバコをゆっくりと取り出すと火を着けた。目線の先には何の変哲もない野生のワニがいる。
 
 最後の煙草を吸うことが今の私にできる彼への最大限の敬意だった。
 

ジャングルの決意 ― ジャングルノート3話

この記事の所要時間: 3 57
第二章:アリの教え
 
 ジャングルに入って二週間が経った。あの黒豹に会ってからは特に変わったことは無い。一つだけあったとすれば変わり果てた姿となった逃亡した二人の隊員達と再会したことくらいだろうか。無惨に引き裂かれた装備と誰だかも判別できない肉塊。あの夜キャンプに設置されていた帰る方向を示す目印が何者かによって移動されていたのだ。可哀想な二人は真っ暗なジャングルの中で逆の方向に駆け出していた。彼らは死の間際に一体どんな声を上げたのだろう。なかなか眠りにつけなかった私が深夜に耳にしたシャベルのような音は誰かがあの目印を移動している音だったに違いない。この隊の中に裏切り者を殺すことを厭わない頭の切れる奴が居る。きっと私はあの夜、人殺しの舞台装置を作る音を聞いていたのだ。それを考える度に何故だか酷く陰鬱な気分にさせられる。
 
 重い空気に包まれて行進していた私達は今までになく広々と拓けた場所に出た。森のなかにぽっかりと空いた薄い駱駝色の墓場。まるで砂漠のようである。そこには木など一つ生えていない代わりに無数の墓標のようなものが立っており、それぞれに直径五センチほどの穴が無数に空いていた。墓標は祭壇でも守るように綺麗に円形に立ち並んでいる。
 
 ーー蟻塚だった。
 同行していた昆虫学者の先生が歓喜の声を上げた。
「こんなにすごい蟻塚は見たことがない、もしかすると世界的な発見になるかもしれないぞ」
 この冒険の本来の目的は調査だ。故に彼の言葉は隊をここに留まらせるのに十分過ぎた。危険だと言うので少し離れた場所に野営地を設置する。蟻の何が危険なものかと半ば自暴自棄になっていた私であったがすぐにそれを改める事になった。長さ二センチメートル程もある巨大な蟻。私はテントの設営中にゴキブリとそれを間違えて驚愕した。こんなにでかい蟻が蟻塚の下には何千何万と居るというのだ。
 この日、隊員全員に蟻に鼓膜を食いちぎられないために耳栓をして寝るようにとの命令があったがこれは珍しくまともな命令だったと思う。
 
 数日間の調査を進めるうち、昆虫学者の先生は彼らが通常では考えられない知的狩猟をしていることを発見した。蟻塚に囲まれた中央の平らな部分は本当に祭壇だったのだ。蟻はジャングルで仕留めた小動物を中央の台座に供える。それはそれを得ようとノコノコやってくる大きな獲物のための生贄だった。大きな獲物が舞台に上がると蟻塚はみるみるうちに真っ黒く変色し、凶暴な檻へと変化する。何万もの蟻は獲物を完全に囲ってしまうのだ。そして逃げられない獲物に向かって一斉に躍りかかる。蟻によって真っ黒に覆われた獲物は断末魔の叫び声を上げて天に上るしか無い。
 よくよく考えてみるとこんなに蟻がいるというのに私達は捕食者であるところのアリクイを一匹も見ていなかった。ここでは蟻が最強なのだろう。先生によると蟻のこんな大規模な狩猟形態を見たのはもちろん初めてで、どんな命令系統でこの規則正しい狩猟が行われているのかは全く予想がつかないという。可能性としては此の地で何千年もの間この方法を続けてきたことで、本能的に祭壇に上がるものを攻撃するようになっているのかも知れない、ということだった。
 
 結局、私達は蟻塚を去るまでに罠に嵌った猿を三回も天へと見送った。例え人間であってもあの祭壇に足を踏み入れたならばひとたまりもないだろう。なのに昆虫学者の先生は中に入って調べてみたいと騒ぎ私達を酷く困らせた。隊がここを離れる当日、副隊長は無言で先生の鳩尾を一発だけ殴ってそれを制止した。更に騒いだら先生は撃たれていたかもしれない。声にならない先生の呻き声を聞きながら私達はキャンプの撤収作業にはいった。不満を述べる者も、意見を述べる者もそこには居なかった。
 
 私は気付いていた。ここにはまともな奴など一人もいない。私もそのうちの一人だ。猿のことも先生のことも、ここに居る奴らの事も全てがどうでも良かった。けれど死んでしまった二人の隊員のことだけがいつまでも心に残っている。もう死んでしまった人間のことなど気にするのはおかしい。然しどうしても無理なのだ。猿の死ぬ前の絶叫は人のそれに聞こえた。きっと逃げ出したあの二人も同じ声をあげたに違いない。悪意の無いふりをした悪意ある行動で彼らは命を落としたのだ。私は決めた。どうせ狂っているのだ。死ぬかどうかも運なのだ。この旅が終わるまでに絶対にあの夜に目印を移動した奴を突き止めてみせる。
 
 私は借金を払う以外にも一つだけ小さな買い物をしていた。
 
 ーーバックの底に忍ばせた、白い四十一口径のデリンジャー。
 

黒豹の歓迎 ― ジャングルノート2話

この記事の所要時間: 3 18

 一章:言葉を話す豹

 何故人間は未開の地に惹かれるのであろうか。そのうち人類は月に行ってみたいなどとまで言い出すかも知れない。安住に努めようとするならば文明が開かれた場所でだけ生きることは極めて合理的であり、死の危険も少ないはずだ。だのにかくいう私もジャングルなどという未開の地に行くことになってしまった。私自身そんな所へは毛頭行きたくなかったのだけれど行けば金をくれるというのだ。フランス政府が随行者に金をくれるという広告を見て仕事の当てのない私は仕方無しに行くことにした。その前金は既に借金の返済に当てられ、私にはもう逃げ場所などない。

 八月八日、遂に私はジャングルの入り口と思わしき森の入口に立った。総勢二十六名。私を除き屈強な者たちも多く結構な大所帯である。私が自身に課したルールは死なないということだけだ。生きて帰る。どんな卑怯な手を使っても生きて帰ってみせる。頭の中には其れしか無かった。近くの村人の案内で連れてきてもらったジャングルの入り口はポッカリと暗い穴を開けている。隊長が今日の行程についての説明やら注意事項を話しているのだけれど全く頭に入ってこない。此の中にはどんな世界が待ち受けているのか。皆考えることは同じなのだろう。各々神妙な顔で森を見つめている。私達は隊長の号令とともに歩き出した。

 森の入り口はまだ明るくて我々を歓迎しているようだった。小鳥のさえずりも聞こえブーツの音が森に響く。二時間ほど歩いただろうか。獣道がよく見えたこともあって少しだけ安心感を持ち始めていたころだった。

「止まれ!」緊張した声がジャングルに響く。指差す方向には一匹の黒豹がいた。木の上からじっとこちらを見ている。散弾銃を構える3人の後ろに固まる我らと黒い悪魔。非常時に最後尾の列は背後への警戒を怠らないように訓練したことも無意味だった。誰もが黒豹に釘付けだったからだ。自分の命の危険から目を逸らすことなど出来なかった。黒豹は木の上で寛いでいる。

「ようこそ、腐れ人間ども。此の森は誰のものでもない。敬い恐れよ。銃も使うな」黒豹は突然流暢なフランス語で話しかけてきた。私達は驚き過ぎて逃げだすこともできない。各々が自分の耳を疑い顔を見合わせる。足はまるで金縛りにでもあったかのようだ。

「黒豹よ、ご高言たまわる。然しそんな心配は無用だ。我らは此の森にとって招かれざる客に見えるかも知れぬが、此処に来ているのは単なる調査目的だ」流石は隊長である。彼は黒豹に向かって勇敢にも語りかけた。

「調査だと。馬鹿も休み休み言え」黒豹は鼻で嗤うと続けた。「調査と言うものは侵略する前に行うものだ。その言葉を使う事でお前らは既に森に喧嘩を売っているのだ。しかしまぁ良い。私にはお前が馬鹿であることが良く解った。教えてやろう。お前らはどんなつもりかは知らぬが此処にお前らをよこした奴らの本当の目的は侵略であり、享楽なのだ」黒豹はニヤリと笑って言った。襲ってくる素振りなど微塵もない。対して私達は怯えている。得体の知れないものに怯え、自分達に絶対的に何かが足りないことを思い知らされているのだ。

「せいぜい楽しめ、命を大事にな」そう言い残すと黒豹は木の向こう側に消えてしまった。
 黙って私達は歩き始めた。黒豹について話す者は誰も居なかった。動物がフランス語を話すなんて其れだけでもおかしいのにそれを言うことさえ憚られる。重い足取りで三時間程歩き続け、やっとの事で少し開かれた場所に出た。キャンプを設営し二交代の睡眠を取る。しかし私は全く寝付けなかった。私を含め多くの者がそうだったのであろう。黒豹の言葉はこの冒険の意味を考えさせるに十分過ぎたのだ。私達は無知だった。振り返ってみると、確かに私達は他人の享楽の為に屡々命を懸けている。それも自分の人生が失敗し始めたと感じた時から。

 その夜、キャンプから二名の隊員が逃亡した。

 

<目次へ>

奇妙な手記 ― ジャングルノート1話

この記事の所要時間: 1 34
  どうして其の本を手に取ったのか全くわからない。吸い込まれる様にして入った一軒の古本屋でベージュ色の表紙をした一冊のそれを見つけた。
 
『ジャングルのせかい』
 古紙の匂いが鼻につき、幾つかの本はまだ紐でくくられてうず高く積まれている狭い店内。誰かが一度見て止めたのだろう。それは表紙を表にしてぞんざいに置かれていた。何故かシルクハットを被り煙草を吹かしているクロコダイルの絵が描かれている。パラパラとめくるとそれ程小さくない活字がビッシリと書かれており、挿絵もほとんど無いため全くジャングルの本という感じはしない。今まで見たこともないようなそれに、ついつい蒐集家の悪い癖が出てしまい、気が付くと紙袋に入った其れを持って店を出ていた。

 此の本に書かれているものは創作なのだろうか、それともジャングルにはまだまだ得体の知れないものが沢山残っているとでもいうのだろうか。現実世界には有り得ないようなタイトルが並んでいる。だのに全く非現実の事が書かれているような感じがしない。もう既に騙されでもしているのだろうか。章立ては次のようになっている。

一章:言葉を話す豹
二章:アリの教え
三章:タバコを吸うワニ
四章:蝶の墓場
五章:逆流する滝
六章:迷い込むライオン
七章:知られざる夜会
八章:この世の果て

 どうだろう。ざっと見ただけでもワクワクしてしまう。週末は此の本をじっくりと読もうと思っている。こんな事をノートに書いているのは最近記憶がとても曖昧で、書いておかないとすぐに忘れてしまうからだ。自分の記憶を紙に残して、自分が生きているという証を残さなければならない。このノートが埋まる頃にはなにもかもがあやふやなこの感じも少しはましになるはずだ。

 この本を読んだ感想も残すとしよう。
 

忘れていく

この記事の所要時間: 2 0

ツイッターのせいで泣いた。個人的には男が泣くことは全く悪く無いと小学校で習って以来全く気にしない方なのだが自分でも少し驚いた。

2017年2月23日、鈴木清順さんの死を知った。知る人ぞ知る映画監督だ。ここ最近メディアに出ることもなかったが自分は清順さんの言葉を投げるbotを購読しており、彼の毒舌を楽しんでいた。作ったのは清順さんのいちファンの方だと思う。

 

 2/23なんて日付まで判るのはこんな事をつぶやいていたからだ。

ginzasur's avatar

清順死んじゃったのかよ。会ったこともないのになんなんだこの感じは”

ginzasur's avatar
好きな人が死んだ日の酒は悲しいくらいに旨い”

ginzasur's avatar

”くそじじいって言われるじじいを目指す”

ginzasur's avatar

”日本映画万歳”
 
ginzasur's avatar
”死んでんじゃねーよって3回は言ったからもういい。 ありがとうございました。”

 人の死は時々、心当たる理由など無いのに納得をさせてくれない。だからこんなのも書いたりした。そして人は忘れていく。バイバイ。

 それから暫くたった一昨日の晩、ふと流れてきたTweetに目が止まった。

”静的な文学世界をより動的な映像世界に変えるのが我々の仕事なんだよ。”

 

 インターネットで毒を吐くのは気を使う。インターネットでなければ更にそうだと思う。その隙きを突くのもまた言葉の使い方だと思うけれど、清順が映画監督の立場でこの言葉を出すという重みはなんかもう無茶苦茶だなぁと思う。あぁやっぱり清順すげぇなぁと感心してしまったのだ。やっぱり彼は愛すべきクソジジイだった。

 数秒後、深夜のスマートフォンに通知があった。 

 ” そうですよ。うまくはめられているんですよ。さからっても、やっぱりやってくるでしょうね。”

 botが喋った。

 泣くだろ、そんなん。

 きっとこんなことも俺は忘れてしまう。だから死ぬ前に残しておこうと思う。 

フェラーリ99’

この記事の所要時間: 2 9
「実は私達付き合ってるのよ」
 他に誰も客が居ないスナックでママからそんな話を打ち明けられた。年は確か40歳のあたりで18歳の娘さんがいる、ちょっと小綺麗な神社に祀られてそうなキツネ顔をした美人だった。
 最近よく手伝いと称してカウンターの中にいる橋さんは確か大手鉄鋼会社の課長だったはずだ。家庭内別居中の奥さんとは冷えきっており、娘さんの話をするときだけは少しだけ饒舌になるような人だった。
 
「そうなんだ。おめでとう」
そのとき二十三才だったはずの俺はママにどう映っていたのだろうか。まるで知り合いのお姉さんが結婚してしまったみたいな落ち込んだ気持ちでカウンターに飾られたF1の模型に目を移した。
 
「皆には内緒ね」
 お祝いの言葉さえろくに言えてないのに今日は良いからとご馳走になった後、まだ夕日に明るい家路を自分の未熟さ加減に頭を垂れながら歩いた。
 
 内緒の筈の話は知らないうちにあっという間に常連客の間に広まっていたけれど、それでもごく一部の客を除いて通うのをやめることはなかった。今ならなんとなく判る、皆きっと他に行けるところなどなかったのだ。あそこはなにかしら心に弱みをもった人たちの吹きだまりだった。思えば橋さんがママの家に転がりこんだあの頃が一番店が活気づいていた時かもしれない。
 
 ーーそれから半年くらいたった頃。突然、橋さんが消えた。
 
 会社にもママにも、仕送り中の別れた家族にさえも何も言わず本当にふっと消えてしまった。ママは暫くの間、毎日泣き腫らした顔でカウンターに待ち続けていた。常連は何事もなかったかのように足繁く店に通った。ママはさんざん手を尽くしたようだったけれど橋さんが店に戻ることは結局なかった。
 
 ある日、自分しかいない開店したばかりの店のなかで「あの人も仕方がなかったのよ」と思い出したようにママが呟くのを聞いた。何が仕方がなかったのだろうか。本当にどうにもならなかったのだろうか。いや俺には解からないけれど仕方ないって言葉はきっとそういう言葉なんだろう。
「そうだね」と言いながらやり場のない気持ちを動かすと赤いF1の模型が目に入ってきた。
 
 カウンターの中に橋さんは居ない。けれど今のこの気持ちはあの日のものに良く似ているなと思った。付き合っていることを告白された日の帰り道の夕焼けの気持ちだった。
 
「あの人、優しいけれど弱かったから」
 
 その日のビールはなんだか少しだけ苦かった。

奇病

この記事の所要時間: 2 53
 最近なんだか目が悪くなってしまった。具体的に言うととにかく文字を読み違えてしまう。「うらやましい」は「うわやらしい」にしか読めないし、女友達から来たメッセージ「旦那から開放されたいです」は「旦那から調教されたいです」に妄想してしまい、いやぁお盛んですなぁとなってしまう。「ムラがあります」は「ムラムラします」、「二カ所も経験」は「二箇所も拘束」に読めるという始末。ちょっと最後は苦しいかな?いいんだよだって拘束してるんだから。
 厄介なのはそれはそれで意味が何となく通じてしまうことで「ビーフパイがおいしかった」も「オッパイがおいしかった」も読み間違えたところで「おいしい」という意味では全く変わらないため「おいしかったの?良かったね」としか返せず、自分が間違っていることに気付くことができないのである。ガッデム。
 これはもしかしたら噂の老眼というやつなのかも知れない。ところが調べてみると老眼というやつは遠くのものしかよく見えなくなるというものらしく何かが違う気もする。しかし素直な自分はちょっと遠くから文字を見てみようと決意し、ディスプレイを遠くに離した。なんにも読めなかった。こんな米粒みたいな文字読めっか!そう言えば自分は極度の近視であった。あれ、よく見ると、そういう人々はなかなか老眼にはなりづらいと書いてある。本当?ねぇそれ本当?
 それでは一体この不思議な目の病気は何なのだろうか。こういった時になんとググればいいんだろうか。試しに間違えてしまった文字「ムラムラ」を引いてみると「ムラムラしている女の子の特徴8つ」などと非常に有益そうな文字が踊っている。やべぇこんなの読んだら日が暮れてしまう。全く検索エンジンというものは恐ろしいものである。やはりこういうのはちゃんと人に話をして聞くのが一番だと気づいた。そうだ、こども電話相談室に電話しよ、そーしよ。しかし全国のいたいけな子どもたちに調教とかいう言葉を聞かせてしまっていいのだろうか。もしかしたら…と自分は恐る恐る「大人電話相談室」と検索してみることにした。あった。ウィキペディア最高。しかしどうやら現在その番組は無くなってしまったらしい。一体誰がそんな素晴らしい番組をやってたの?教えてウィキペディア。
「出演者:浅草キッド。」
 俺は思わず暴れそうになった。馬鹿なのか。パソコンのディスプレイに頭突きを試みた。が、ディスプレイは何故かいつもよりちょっと離れた位置に動かしてあったので助かった。なぜ俺は下の問題に偉く強そうな人たちに目の病気の相談をしなくてはいけないのだろうか。夜の紹介所みたいな相談ならいいのかもしれないが自分が相談したいのは目の病気。下半身の問題ではないのだ。ダメ押しは関連項目にあった名前。
「ジェーン・スー」
 ウィッキペディアァァァァあ。くっそぉぉぉぉ。しない。お前に募金なんて絶対しねぇぞぉぉ。自分みたいな男がジェーン・スーに相談したらものの30秒でマットに沈むだろう。けちょんけちょんのフルボッコだ。俺を殺す気かウィキペディア。俺は目の問題を聞きたいのであって結婚問題では無いのだ。
 もう自分は疲弊し、あきらめ、これは奇病だと受け止めることにした。
そういえば自分は速読ではないが文字を読むのがちょっと人より速かったりする。もしや…祈りながらゆっくり読んでみると今度は不思議と一文字も読み間違えなかった。

 

 全く世の中には神も仏もいるものである。

ずんちゃか

この記事の所要時間: 0 43
ずんちゃかずんちゃかずんちゃかずんちゃか
あいつだあいつがやってくる
体を左右に大きく揺らし
チンドン構えてやってくる
着流しするのがいいらしい
声出さないのがいいらしい
酒がいつでもはいってて
浮世の涙が好きらしい

女のカラダが好きらしい
女の心が好きらしい
男に興味が無いらしい
男は粋がいいらしい
仕事はそこそこやるらしい
遊びは死ぬほどやるらしい
金はけっこう好きらしい
借金するのは厭らしい

人生八割運らしい
残り二割は愛らしい
時々願って叶ったり
願ってないのに叶ったり
人が哀れに見えてたり
自分を哀れに見ていたり
だったら皆が同じだと
結局忘れて生きていく

ずんちゃかずんちゃかずんちゃかずんちゃか
ずんちゃかずんちゃかずんちゃかずんちゃか

アバラハウス更新配信のご連絡

この記事の所要時間: 0 26

拙著「アバラハウス」の誤字部分を更新した物がAmazonから配信されるようになりました。

Kindleの場合、更新版をアップロードした後に報告フォームから該当箇所と内容について申告し、確認をしていただいた後に配信という手順になります。最大一週間程度かかるという連絡をいただいてから二日で更新していただきました。

お買い求めいただいていた皆様、お手数ですが更新の程よろしくお願い致します。

銀座
アバラハウス

 

誕生日

この記事の所要時間: 1 46

 九月六日、誕生日だから俺のためになんか書いてくれと友人が言い出した。いつも何かしら書いたりしているのだからそれ程無茶な願いでも無い気もするし、いや結構無茶だろうと思う自分もいる。だって我こそはキングオブ照れ屋。お題は『誕生日』が良いと言われた。誕生日について書こうと思う。

「誕生日はドンドン色褪せていく」そんな台詞を彼から聞くとは思わなかった。確かに10代、20代、30代と経ていつの間にかお互いに40代になってしまった。そして気付いたらもっと上の世代になって、頼みもしないのにどんどん死は近づいてくるのだろう。俺達は何処に生きる成長の糊代を落としてしまったのだろうか。年と共に成長するのは幾ばくかの雑学と生きる裏技、そして悲しみに耐える方法ばかりだ。俺が死んだら色々頼む、なんてことを今年も言われた。男が短命の家系らしく彼は後20年位で自分の寿命が来るものだと思っている。そんなこと言うなよ、で返す位が丁度良かったのかもしれないが、そんな言葉は出てこなかった。
「子供がまだ小さいんだからなるべく長生きしろよ」現実の言葉はいつも陳腐だ。

────
 ヤマザキくん、君はまた一つ歳を取っちまいやがりました。俺はこの日が来ると君がひとつ年上になってしまうのでタメ口を聞くのが少しだけ躊躇われてしまいとても嫌です。君は言いました「子供の成長を見ながら一緒に酒を呑んだり昔の話をできればいい、そして新しい音楽やカルチャーに触れられたらそれでいい、先に逝くだろうから其の後はよろしく」
なるほどこれは見方によってはたいそう有り難い言葉なのかもしれませんが、俺は欲張りなのでこんな言葉では全然満足できません。

だから千年生きましょう。
一万年では長過ぎます。
千年くらいが丁度良いです。
そんなこと無理だろうと他のやつに馬鹿にされたってかまやしません。
千年生きましょう。
そしてもう少しだけ一緒に旨い酒を飲みましょう。
────

後九百五十年位残っているんだったら、まだまだ笑って余裕で言える気がする。

──誕生日おめでとう。