忘れていく

この記事の所要時間: 2 0

ツイッターのせいで泣いた。個人的には男が泣くことは全く悪く無いと小学校で習って以来全く気にしない方なのだが自分でも少し驚いた。

2017年2月23日、鈴木清順さんの死を知った。知る人ぞ知る映画監督だ。ここ最近メディアに出ることもなかったが自分は清順さんの言葉を投げるbotを購読しており、彼の毒舌を楽しんでいた。作ったのは清順さんのいちファンの方だと思う。

 

 2/23なんて日付まで判るのはこんな事をつぶやいていたからだ。

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清順死んじゃったのかよ。会ったこともないのになんなんだこの感じは”

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好きな人が死んだ日の酒は悲しいくらいに旨い”

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”くそじじいって言われるじじいを目指す”

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”日本映画万歳”
 
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”死んでんじゃねーよって3回は言ったからもういい。 ありがとうございました。”

 人の死は時々、心当たる理由など無いのに納得をさせてくれない。だからこんなのも書いたりした。そして人は忘れていく。バイバイ。

 それから暫くたった一昨日の晩、ふと流れてきたTweetに目が止まった。

”静的な文学世界をより動的な映像世界に変えるのが我々の仕事なんだよ。”

 

 インターネットで毒を吐くのは気を使う。インターネットでなければ更にそうだと思う。その隙きを突くのもまた言葉の使い方だと思うけれど、清順が映画監督の立場でこの言葉を出すという重みはなんかもう無茶苦茶だなぁと思う。あぁやっぱり清順すげぇなぁと感心してしまったのだ。やっぱり彼は愛すべきクソジジイだった。

 数秒後、深夜のスマートフォンに通知があった。 

 ” そうですよ。うまくはめられているんですよ。さからっても、やっぱりやってくるでしょうね。”

 botが喋った。

 泣くだろ、そんなん。

 きっとこんなことも俺は忘れてしまう。だから死ぬ前に残しておこうと思う。 

フェラーリ99’

この記事の所要時間: 2 9
「実は私達付き合ってるのよ」
 他に誰も客が居ないスナックでママからそんな話を打ち明けられた。年は確か40歳のあたりで18歳の娘さんがいる、ちょっと小綺麗な神社に祀られてそうなキツネ顔をした美人だった。
 最近よく手伝いと称してカウンターの中にいる橋さんは確か大手鉄鋼会社の課長だったはずだ。家庭内別居中の奥さんとは冷えきっており、娘さんの話をするときだけは少しだけ饒舌になるような人だった。
 
「そうなんだ。おめでとう」
そのとき二十三才だったはずの俺はママにどう映っていたのだろうか。まるで知り合いのお姉さんが結婚してしまったみたいな落ち込んだ気持ちでカウンターに飾られたF1の模型に目を移した。
 
「皆には内緒ね」
 お祝いの言葉さえろくに言えてないのに今日は良いからとご馳走になった後、まだ夕日に明るい家路を自分の未熟さ加減に頭を垂れながら歩いた。
 
 内緒の筈の話は知らないうちにあっという間に常連客の間に広まっていたけれど、それでもごく一部の客を除いて通うのをやめることはなかった。今ならなんとなく判る、皆きっと他に行けるところなどなかったのだ。あそこはなにかしら心に弱みをもった人たちの吹きだまりだった。思えば橋さんがママの家に転がりこんだあの頃が一番店が活気づいていた時かもしれない。
 
 ーーそれから半年くらいたった頃。突然、橋さんが消えた。
 
 会社にもママにも、仕送り中の別れた家族にさえも何も言わず本当にふっと消えてしまった。ママは暫くの間、毎日泣き腫らした顔でカウンターに待ち続けていた。常連は何事もなかったかのように足繁く店に通った。ママはさんざん手を尽くしたようだったけれど橋さんが店に戻ることは結局なかった。
 
 ある日、自分しかいない開店したばかりの店のなかで「あの人も仕方がなかったのよ」と思い出したようにママが呟くのを聞いた。何が仕方がなかったのだろうか。本当にどうにもならなかったのだろうか。いや俺には解からないけれど仕方ないって言葉はきっとそういう言葉なんだろう。
「そうだね」と言いながらやり場のない気持ちを動かすと赤いF1の模型が目に入ってきた。
 
 カウンターの中に橋さんは居ない。けれど今のこの気持ちはあの日のものに良く似ているなと思った。付き合っていることを告白された日の帰り道の夕焼けの気持ちだった。
 
「あの人、優しいけれど弱かったから」
 
 その日のビールはなんだか少しだけ苦かった。

奇病

この記事の所要時間: 2 53
 最近なんだか目が悪くなってしまった。具体的に言うととにかく文字を読み違えてしまう。「うらやましい」は「うわやらしい」にしか読めないし、女友達から来たメッセージ「旦那から開放されたいです」は「旦那から調教されたいです」に妄想してしまい、いやぁお盛んですなぁとなってしまう。「ムラがあります」は「ムラムラします」、「二カ所も経験」は「二箇所も拘束」に読めるという始末。ちょっと最後は苦しいかな?いいんだよだって拘束してるんだから。
 厄介なのはそれはそれで意味が何となく通じてしまうことで「ビーフパイがおいしかった」も「オッパイがおいしかった」も読み間違えたところで「おいしい」という意味では全く変わらないため「おいしかったの?良かったね」としか返せず、自分が間違っていることに気付くことができないのである。ガッデム。
 これはもしかしたら噂の老眼というやつなのかも知れない。ところが調べてみると老眼というやつは遠くのものしかよく見えなくなるというものらしく何かが違う気もする。しかし素直な自分はちょっと遠くから文字を見てみようと決意し、ディスプレイを遠くに離した。なんにも読めなかった。こんな米粒みたいな文字読めっか!そう言えば自分は極度の近視であった。あれ、よく見ると、そういう人々はなかなか老眼にはなりづらいと書いてある。本当?ねぇそれ本当?
 それでは一体この不思議な目の病気は何なのだろうか。こういった時になんとググればいいんだろうか。試しに間違えてしまった文字「ムラムラ」を引いてみると「ムラムラしている女の子の特徴8つ」などと非常に有益そうな文字が踊っている。やべぇこんなの読んだら日が暮れてしまう。全く検索エンジンというものは恐ろしいものである。やはりこういうのはちゃんと人に話をして聞くのが一番だと気づいた。そうだ、こども電話相談室に電話しよ、そーしよ。しかし全国のいたいけな子どもたちに調教とかいう言葉を聞かせてしまっていいのだろうか。もしかしたら…と自分は恐る恐る「大人電話相談室」と検索してみることにした。あった。ウィキペディア最高。しかしどうやら現在その番組は無くなってしまったらしい。一体誰がそんな素晴らしい番組をやってたの?教えてウィキペディア。
「出演者:浅草キッド。」
 俺は思わず暴れそうになった。馬鹿なのか。パソコンのディスプレイに頭突きを試みた。が、ディスプレイは何故かいつもよりちょっと離れた位置に動かしてあったので助かった。なぜ俺は下の問題に偉く強そうな人たちに目の病気の相談をしなくてはいけないのだろうか。夜の紹介所みたいな相談ならいいのかもしれないが自分が相談したいのは目の病気。下半身の問題ではないのだ。ダメ押しは関連項目にあった名前。
「ジェーン・スー」
 ウィッキペディアァァァァあ。くっそぉぉぉぉ。しない。お前に募金なんて絶対しねぇぞぉぉ。自分みたいな男がジェーン・スーに相談したらものの30秒でマットに沈むだろう。けちょんけちょんのフルボッコだ。俺を殺す気かウィキペディア。俺は目の問題を聞きたいのであって結婚問題では無いのだ。
 もう自分は疲弊し、あきらめ、これは奇病だと受け止めることにした。
そういえば自分は速読ではないが文字を読むのがちょっと人より速かったりする。もしや…祈りながらゆっくり読んでみると今度は不思議と一文字も読み間違えなかった。

 

 全く世の中には神も仏もいるものである。

ずんちゃか

この記事の所要時間: 0 43
ずんちゃかずんちゃかずんちゃかずんちゃか
あいつだあいつがやってくる
体を左右に大きく揺らし
チンドン構えてやってくる
着流しするのがいいらしい
声出さないのがいいらしい
酒がいつでもはいってて
浮世の涙が好きらしい

女のカラダが好きらしい
女の心が好きらしい
男に興味が無いらしい
男は粋がいいらしい
仕事はそこそこやるらしい
遊びは死ぬほどやるらしい
金はけっこう好きらしい
借金するのは厭らしい

人生八割運らしい
残り二割は愛らしい
時々願って叶ったり
願ってないのに叶ったり
人が哀れに見えてたり
自分を哀れに見ていたり
だったら皆が同じだと
結局忘れて生きていく

ずんちゃかずんちゃかずんちゃかずんちゃか
ずんちゃかずんちゃかずんちゃかずんちゃか

アバラハウス更新配信のご連絡

この記事の所要時間: 0 26

拙著「アバラハウス」の誤字部分を更新した物がAmazonから配信されるようになりました。

Kindleの場合、更新版をアップロードした後に報告フォームから該当箇所と内容について申告し、確認をしていただいた後に配信という手順になります。最大一週間程度かかるという連絡をいただいてから二日で更新していただきました。

お買い求めいただいていた皆様、お手数ですが更新の程よろしくお願い致します。

銀座
アバラハウス

 

誕生日

この記事の所要時間: 1 46

 九月六日、誕生日だから俺のためになんか書いてくれと友人が言い出した。いつも何かしら書いたりしているのだからそれ程無茶な願いでも無い気もするし、いや結構無茶だろうと思う自分もいる。だって我こそはキングオブ照れ屋。お題は『誕生日』が良いと言われた。誕生日について書こうと思う。

「誕生日はドンドン色褪せていく」そんな台詞を彼から聞くとは思わなかった。確かに10代、20代、30代と経ていつの間にかお互いに40代になってしまった。そして気付いたらもっと上の世代になって、頼みもしないのにどんどん死は近づいてくるのだろう。俺達は何処に生きる成長の糊代を落としてしまったのだろうか。年と共に成長するのは幾ばくかの雑学と生きる裏技、そして悲しみに耐える方法ばかりだ。俺が死んだら色々頼む、なんてことを今年も言われた。男が短命の家系らしく彼は後20年位で自分の寿命が来るものだと思っている。そんなこと言うなよ、で返す位が丁度良かったのかもしれないが、そんな言葉は出てこなかった。
「子供がまだ小さいんだからなるべく長生きしろよ」現実の言葉はいつも陳腐だ。

────
 ヤマザキくん、君はまた一つ歳を取っちまいやがりました。俺はこの日が来ると君がひとつ年上になってしまうのでタメ口を聞くのが少しだけ躊躇われてしまいとても嫌です。君は言いました「子供の成長を見ながら一緒に酒を呑んだり昔の話をできればいい、そして新しい音楽やカルチャーに触れられたらそれでいい、先に逝くだろうから其の後はよろしく」
なるほどこれは見方によってはたいそう有り難い言葉なのかもしれませんが、俺は欲張りなのでこんな言葉では全然満足できません。

だから千年生きましょう。
一万年では長過ぎます。
千年くらいが丁度良いです。
そんなこと無理だろうと他のやつに馬鹿にされたってかまやしません。
千年生きましょう。
そしてもう少しだけ一緒に旨い酒を飲みましょう。
────

後九百五十年位残っているんだったら、まだまだ笑って余裕で言える気がする。

──誕生日おめでとう。

猫の王

この記事の所要時間: 0 43

俺の飼い主は少しおかしい。
餌を持ってくるのがいつも遅い。
俺が寝ているのに触ってくる。
椅子を持ってくるから座ってやったのに騒ぐ。

舐めると変な声を出すくせに手を出す。
嫌だというのに風呂に入れようとする。
下僕のくせに引っ掻くと怒る。
俺のために物を買いすぎる。

俺の飼い主はとても弱い。
猫好きな人間は強いなどと言い出す。
たまに辛そうな顔でワシャワシャして来る。
俺をなんだと思っているのか。

やぁやぁ我こそは猫の王。
我儘は仕事、妥協などない。
何があっても傍若無人で在り続けなければならない。
其れこそが王に求められる資質だからだ。
さぁ飼い主よ、そこにひざまづけ。
すべからく今日も我を讃えよ。

そしてさっさと幸せになってしまえ。
我にもっと貢物を持ってくる為に。

イナバタラレバ

この記事の所要時間: 3 37
 ハロー皆さんこんにちは。お前だぁれ?って、まぁウサギなんですけどね。正直かったるいったらありゃしない。今日はあんまりにも自分について誤解が多いので「ウサギの主張」ってやつを頑張ってみたいと思います。

大体イナバって言葉が適当過ぎるんですよね。物置の会社名を聞くと俺を思い出したり、蟹缶を見ても連想しちゃう人が居るんじゃないかな、あれはタラバ。要はペットショップにでも行かないと中々見れないはずの生き物なのに身近に扱われ過ぎっていうか馴れ馴れしいっていうか。悲しいことに兎に角ウサギってやつは、雑に、不条理に扱われてるんだよと主張したい。兎に角だってそう。角なんて生えて無いし!
目が赤いせいでさぁ、可愛いって寄って来てくれても「うわっ、怖っ」とかよく言われるけれど失礼にも程があるよね。悪かったなぁ、こちとら毎日寝不足なんだよ!寂しいと死んじゃうとか言うのもさぁ、生き物皆同じっしょ!

さて、ぶっちゃけ皆さんはウサギって聞くとずる賢いとか悪戯好きだとかそんなイメージを持ってやしませんか?
他の絵本でもそうなんだけれど例えばカチカチ山。挿絵を見ると大抵ドヤ顔の俺が写っているわけで。俺はただ正義の報復を遂げようとしているだけなのにね。あれはさぁ、本当はもっと生きた心地がしないミッションインポッシブルな作戦だったのに全然其れが伝わってない。
火打ち石で火を付けるのなんて下手すりゃ自分が炎上。薪と国産純百パーセント毛皮、どっちが燃えやすいのか考えてごらんなさいって。どう考えたって命懸けでしょうよ。カチカチいってたのは俺の歯の方。だのにタイトルは火打ち石の音って事になってるんだからやってらんないよね。
唐辛子入りの味噌を塗るのだって良く考えたら危ないよ。狸は牙があるからキレて噛みつかれでもしたら一環の終わり。アイツらは人間を化かすくらいの生き物なんだから言ってみればプロの詐欺師なわけ。それを騙すってことがどれだけ大変かっていうところをね、もうちょっとわかって欲しいもんだよ。
最後に泥の船ね。あんなに重いのに誰も運ぶの手伝ってくれないなんて。あれ製作期間丸三日よ?狸が川に沈んだ後は筋肉痛のせいで岸に戻るのすら大変だったさ。そもそも作戦実行前に雨が降ったら大失敗に終わってたはずだし本当にラッキーだったとしか言いようがない。もうちょっと違う作戦にしませんか?って黒幕のキツネに聞いたのに却下されてさぁ。あ、コレ秘密ね。メデタシメデタシで喜んで踊ってる風に見えるあれは痛みに耐え兼ねて跳び上がってたところをたまたま撮られたスナップショットだから。正直あの話はさぁ、もっとディテールに拘って大河ドラマ並にしてくれたって良い作品だと思うよ。
もう大分お分かり頂けたと思うけれど、結構苦労もしてるのに誤解されちゃってるの。簡単にチャッチャとやってる訳じゃないんだよ。

鳥獣戯画って見たことあるかなぁ。色も塗ってない只の手抜きの絵なんだけどね。アレにも文句が言いたい。なにせ適当過ぎるしコミカル過ぎる。なんで俺が猿に酒をついだり、弓を持ったりしなきゃいけないの?自分が殺される道具を持たされるなんてシュールにも程があるでしょ。地面で転がって笑ってる所とかもね、滅茶苦茶バカっぽく見えるからヤメて欲しい。挙句の果てにはカエルと同じサイズで描きやがって。確かに俺は背が低いけれど、流石にそんなには小さくはないでしょうよ。
自分で言うのもなんだけどさぁ、どう考えたって鳥獣戯画の主役は俺でしょ。カエルだっていう人はウサギを全部消してご覧なさいよ。カエルの学校になっちゃうから。なのにあんなに露出度が高い癖に著作権なんてとっくに切れちゃって印税なんて一銭も入ってこないんだから。全く酷いもんさ。

まぁいいやぁ。お陰さまでまだまだ知名度は残ってるし、そこそこ仕事は貰えてるんだ。実は意外と忙しいんだよね。口をバッテンにしてオレンジ色の背景で写真撮ったり、大人向けの黒い網タイツのコスチュームを売ったりさ。持ってるの?ありがとう。
今日だって忙しくて時間が無いのに仕事に駆りだされてるんだよ。取り敢えず椅子に座ってさえ居れば良いっていうからこれを書いてるんだけどね。

 え、今は何の仕事をしてるのかって?
 ──目の前で水色のワンピースを着たアリスっていう女の子が裁判にかけられてる。

ケルベロス

この記事の所要時間: 1 42
 やぁやぁ、こんにちは。一つだけ聞いてみたいのだけれど一体全体何故お前は俺の胸に巣食うのか。固形でもないくせにまるで癒着でもしているかのように胸の中央にガッチリと居座るのか。俺はお前が誰しも内に秘めているものだということを知っている。だからってそんな所に固まる必要はないではないか。指先の毛細血管のその又先まで、体中に満遍なく霧散していればよいではないか。一体全体何故にそんなふうに一箇所に固まろうとするのだ。
ーー悪意よ

 何をしてもお前のせいで、自分が悪なのではないかという罪悪感に囚われてしまう。自分の考えが誤ってるのではないかと思ってしまう。俺にとって悪意の反対は善意ではない。共存でありバランスなのだ。お前と上手く付き合えるならばそれで良い。お前を追い出そうなんて考えない。善意なんてものでお前と争う気など初めから無いのだ。世の中がつまらない。そんな風に思う事もあるだろう。しかしそれを毒づいて他者の気分まで悪くすることに一体何の意味があるというのか。同調を求めれば救われるのか。

 俺は善意なんてものはお前が作り出す影なのではないかと思っている。悪意があるからこそ覆うべき何かが必要で、それに誰かが名前を付けただけなのではないか。俺が言葉を覚えたとき、お前は善意よりも先に既に俺の中に居たような気がする。実は善意もお前そのものなのではないのか。

 悪意よ、其の存在を具現化することなかれ。宿主の願いを聞き入れ給え。お前が思い知らしめようとさせる憂いなど、お前が居なくたって気付くことはできるのだ。それをお前のせいになどしたくはないのだ。今はお前に話しかける余力すら残っている。己を否定することなかれ。悪に染まる事なかれ。偽善者も偽悪者もいる世の中で生きていく。自身を見失わずに生きて行く。善意と悪意と自分自身が心を喰らい尽くさぬように手懐けながら。

 胸に腕を突っ込んで悪意を引きずり出す。握り潰してまた戻す。手にこびり付いているのはコールタール。重油の臭いが鼻につく。

狐祭り

この記事の所要時間: 1 33

夏祭りの社。

橙色の提灯の明かりがボンヤリと屋台道を照らしている。
ふと見ると狐の面がこっちを見ていた。
少し神経質そうな後ろ姿をした男が立ち止まる素振りもなく歩いている。
そんな男の後ろをちょっと離れて付いて行く南天柄の白い浴衣の女。
狐の面は女の後ろ手にひょいと乗ってこちらを見ていた。

突然女は男の浴衣の袖を引っ張り足を止めさせる。
大正眼鏡を掛けたとても気難しそうな男の横顔が見えた。
どうやら女に林檎飴をねだられたらしい。
渋々という言葉はこんな時のためにあるかのように男は懐から財布を取り出すと、林檎飴を女のために買った。

女は無邪気に喜んで林檎飴を受け取るとペロリとそれを舐めた。
白い浴衣に南天の赤が映える。赤い林檎飴は屋台の明かりで光っている。狐面の赤い隈取が更に鮮やかさを増した気がした。

男が何やら店番と話している間に女がこちらの視線に気付いてしまった。
びっくりするほど白い綺麗な顔の上で赤い口紅がニッコリと笑う。
なんだろうこの違和感は。目を逸らせたいのに逸らすことが出来ない。

男は話が済んだらしくまた歩き出した。
女は林檎飴を持った手でひらひらとこちらに手を振るとぴょんぴょんと跳ねるように男の後をついて行ってしまった。
なにかに化かされたように取り残された自分にふっと意識が戻ってくる。
夏祭りに浮かぶ白い浴衣。南天、口紅、林檎飴。
赤と白のなんだかクラクラする意識の中で一つのことだけがはっきりと浮かんだ。

あの男は喰われるのだ。
浮かんだ言葉の恐ろしさに「ヒェッ」と声が出そうになるのを堪えると遠くを行く狐の面がニコリと笑った気がした。

祭りが盛り上がってきているのだろう。
大きくなるお囃子の音だけがたった今起きた不思議な出来事を掻き消そうとしていた。