全く不憫な世の中である。誰もが狂気に憧れ、狂気との共通点を見つけてはほくそ笑んでいるというのだから。昔の狂気は大人の嗜みだったところも大きいのかもしれない。だから何処まで狂気を推測するか、何処まで狂気で補うか等の暗黙の了解がそこにはあったような気がする。

それが今はどうだろう。すっかり変わってしまった。高年齢化が進んでいるなどと謳っているくせに若年向けの狂気が制作されるようになってしまったからだ。子供達は自分達の理解できる軽い狂気に心酔する。そして軽い狂気をまるで本物の狂気として認識し、そのままの列に並んで大人になっていく。
もはや新しい大人達は軽い狂気をそのまま本物の狂気として認識し、それを元に狂気全体を測ろうとするようになり始めてしまった。

社会性の欠如は現代社会における障害であり、狂気とはまた違ったもののように思う。ところがそこに自分の狂気と同じ部分を感じた人達がその部分を絶賛した。軽い狂気をリアルの自分に置き換えたという事なのだろう。軽い狂気の中には所々にほつれも在りはしたが、それは新しい基準においては許容範囲に収まっている。例えそのほつれが製作者がその狂気を架空の事であると判らせるために敢えて目印として残したものだったとしてもだ。軽い狂気がただの狂気として独り歩きし始めてしまった。

私は狂ってるように見せようとすることは本物の狂気ではないと考えている。しかしそれも時代とともに変わっていくものなのかも知れない。何せ狂気自体も狂っているのだから。
狂気の閾値は下がってきている。それに比例して世界の面白さが減ってしまっているのではないかという危惧を私は振り払うことができない。

そんな論文が発表されたのは2025年の事だった。

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