嘘八百。という言葉をご存知だろうか。

齢四十年を過ぎてなお、此れほどまでにこの言葉に惹かれるのは、この言葉の持つ独特の有り難みが放っておいても滲み出ているためだろう。そのくせ人生の中でこの言葉を何回聞いたのか、と聞かれると、まだ八百回も聞いていないことにはたと気が付く。誠に罰当たりなことである。

さて、ご存知の通り嘘八百と言うのは嘘の中にも八百の神がいらっしゃって半眼でこちらを見ているよ。という大変ありがたい言葉だ。嘘も方便という言葉が暗に含まれるのも趣があって良い。もっと嘘八百をつかなければと反省する他ない。

では何故こんなにも素晴らしい言葉があまり使われないのだろうか。きっと皆んな照れ屋だからだ。嘘というものに照れるからこそ不要な罪悪感を持ってしまう。神が在わすのだからもっと嘘をつかなければならない。それもとびきりの嘘を。

神が見ていると考えると、人を傷つけるような嘘は論外だろう。下卑た嘘や見え見えの嘘も問題だ。悟りを開く半眼にてやっと気が付くようなものでなければならない。それって一体どんな嘘よ。

残念なことにまだ悟りの境地に至ってない自分にはそのような嘘は難しい。今書いているこんな嘘をつくのが精一杯だ。

いつかとびきりの嘘をついて見たいものだなと思う。